出来ることと出来ないこと

年の功とかジェンダー的とか地域的特権的に、私にできることなら喜んで差し出すし、漠然と役割だと思うから見返りも別に期待しない。だって出来ることしかしないし。
人から感謝されるのは、わざわざ『良かれと思って』やったことより、そういうあまり自覚しないで手を出したことだったりする。あとから言われても、覚えてないことが多い。私は割と人なんてそんなもんだと思ってる節がある。どうせ人のためなんて考えたって浅はかなんだから、無理しないで自然に生きてりゃいいんじゃないの。まあ、バカなのは私だけかもしれんがな。
そんで自分ももっと若かったころには年上の人に助けられたし教えられたわけで、自分の番になってそれを還元しているだけなので変に恐縮することも、当の本人に何か返そうとする必要もない、というのが掛け値なしの本音だ。金と大恩は返さなきゃ人としてダメだろうけど、そんな大したことしてないもん。
その代わりというわけでもないが、年齢とか男女差とか生来の得手不得手みたいなものにはあまり関係ないだろ、と思える部分は極端に手を引く。まあ、余計なお世話だしね。
へんな言い方だが、自分で幸せになる方策を立てられない人は、個人的に信用できないと思っているのであまり付き合いたくない。そして余計な手出しをすると、本人の希望を阻害してしまう気がするのだ。何かしたいならすればいいことで、方策が判らなければどうすればいいのか自分で考えるでしょ。頭は髪の毛を生やして飾っとくための台じゃないんだから。場合によっては厚かましく手助けしようとした私を軽く凌駕するかもしれないじゃないか。一番楽しいのは自分でいろいろ体験することなのに、醍醐味をすっ飛ばしたら本人が可哀想だ、という発想をしてしまうのは私自身が『ひとりでできるもん!』という第一次反抗期幼児のままだからかもしれない。
それにどうも私は手を出すと相手をスポイルしてしまうらしいんだな。性格がキツくてコワいせいかもしれない。だから脅かさないようになるべく放っておくことにしている。
逆に何の気なしに甘えたことが実は相手の負担になってたら、おかしな理屈だけど私ならいつの間にか加害者にされて却って厭な気分になるし、たいていは人を不愉快にさせてまで自分が得したいわけではないので、だったら断ってくれたほうがいいと思ってしまう。そういう意味でも自分で幸せになろうとしない人は困る。断るというのは請けるよりもエネルギーが要るから、なるべく相手の都合は判る範囲で考えようとはするけど、それでも至らない部分というのは出てくる。というか、家族恋人以外で他人のプライベートな事情や好みまで把握できるほうがコワいわ。しかも利害が一致とまでいかなくても、邪魔しない程度には合致してなきゃいけないとしたら、ムリだろ。請けるのが誠意なら、断るのも誠意なのだ。
しかしそれとは別に、自分でせねばならんことは誰のせいでもなく自分のためにする。その努力にどっかり胡坐をかいて乗っかってこられると腹が立つということもあるな。と最後にひっくり返したりして。どっちやねん。