少しの欠点もなく完全なさま

心持ちひとつで同じことも不幸だったり幸福だったりする。
楽しい気分で飲む酒は美味くとも、鬱々としたヤケ酒はキモチワルイ。普段の私ならどうせ飲むなら、とくるところであるがそれは置いておいて、ところで同じ行為でも因果が違えば意味合いがまったく違ってくるのは面白い。
あることをするのに自分のコンディションも含めて十全であるというのはどういうことだろう。焼肉は満腹で食べるより、一食分抜いたくらいの空腹状態で挑んだほうが美味しく感じる。もっといえば、焼肉はたんぱく質と脂であるから、身体がそれを欲する状態で口にすれば五臓六腑に染み渡るだろう。それには筋肉が疲労した状態に持っていく、つまり二、三日かけて運動をしておくといいかもしれない。胃腸の調子も味覚に影響するので、脂っこいものも容易に消化吸収できるよう健康を保っておく必要がある。最高の焼肉のための受入れ準備としてはこれくらいしておけばかなりいいほうだと思う。
釈迦は断食の苦行をしても悟れず、とうとう諦めてスジャータが差し出した乳粥を食べたときに急に悟りを啓いたという。おそらく毎日乳粥を食べていただけでは悟れなかっただろう。粥の前に苦行があってこその悟りである。断食によって脳がエネルギー不足の極限状態にあったのが、粥を食べたことで燃料が注入され、いきなりフルスロットルで暴走した結果だったのかもしれない。
体験が十全だったり完璧な事象であるためには、本人のあり方も関与してくるのではなかろうか。住み馴れた場所で新鮮な心持ちになるのは難しい。何処かに行くこと、戻ってくること。比較の対象を知ること、自らの立場を変えることで別の視点を得ること。
そんなようなことをぼんやりと考える。文字に起こしておかなければ忘れてしまいそうな漠然とした観念である。