ファイト・クラブを醒めた目で観てはいけない

平日の休めるときに代休を取っておく今日この頃である。前日は終電まで次の日は早出して仕事を処理し、無理矢理1日の予定を空けるのだが、休めるようになっただけマシである。連日予定がガッチリ入っていると、ひとりでは融通の利かせようがない。そうして休んでいると会社の携帯が容赦なく鳴る。平日昼間だからしょうがない。しょうがないのでまるでいま現場にいますよという風に普通に話を聞いて打ち合わせをする。呆れるほど電話連絡が多い職種なのである。
しかしこういうのもすべてが終わってみれば充実感と共に大変だったけどある意味楽しかった思い出として脳内再生されるであろうことは想像に難くない。やってる間は不安だらけだし上手くいくことなんかひとつもないし、精神を苛むほど日々打ちのめされてもうイヤだこんな仕事辞めたいぃ! とピヨピヨしているのだけど、喉元過ぎればなんとやらなんである。そんなものだ。
いやね、本気で厭だよ、やってる最中は。これはガチ。でもいままでの経験からいって終わればそうなる単細胞な自分も見えてる。だから耐えられるんだろう。これが先の見えないエンドレスだったら絶望すると思う。こうして体育会系のマッチョが形成されていくのである。そんなことを思いつつファイト・クラブを観直していたら、なんだかやたら身に覚えのある話で少々バツが悪くなったのだった。
殴られることに価値を見出すならば、反社会的な挑戦を続けることはそれで引きおこされる結果のほうに意義があるんであろうし、それがエスカレートすれば生きている間は剥奪されている名前が死後には与えられるというような過剰な束縛と死後の褒章にも繋がっていくんだろう。制服や仲間内でだけ通じる決まりごとを作ると連帯感が強まり、身内と外部の人間とを切り離すような排他的な言動に出るようになるという話を思い出す。これに辛い体験の共有を追加すれば更に効果的である。軍隊というのはその最たるもので、その精神は体育会系のクラブにも受け継がれていると思うんだが、そういう雰囲気を毛嫌いする文科系タイプの人たちの間でどうして『ファイト・クラブ』の人気が高いんだろ。アレか、「僕」の理想像が「タイラー」だったみたいなものか。
冒頭での「僕」は大人しいよく訓練された社畜で生きてる実感がないらしい。そういうのもよく判る。仕事関係では若い頃にけっこう苦労したので、掛け持ちしなくともひとつの仕事で生活費が賄えて、今月の家賃をどうやって捻り出そうかと悩まなくていい今の環境は非常に恵まれているといえる。忙しくても暇でもとりあえず給料は貰えてボーナスまで出る。素晴らしい。ただそうやってステップアップして地面が遠くなると、空中でなにをしていいのか判らなくなる。自由というのは決断を迫られるので苦しい。周りを見回すと趣味ややりたいことが明確そうで、充実してて楽しそうだ。それじゃあってんで、なにがしたいのか自分の中を探ってみると、空っぽの空洞がぽっかり口をあけている。
私の中にはなにもない。
生きるために生きる苦しさから逃れる努力はした。運良く人並みにはなれたかもしれない。ただそれは何かがしたいからその道を邁進して気がついたらそうなっていたのとは違う。何かが足りない。中身がないのだ。生きるのが目標の動物的な段階から脱したら、今度は人間らしさを学ばねばならなくなった。いまさら流行りモノにもブランド消費にも興味持てないし、食べることと寝ること以外に何に熱中できるだろう。
「僕」の中には「タイラー」という理想像がいた。それだけでたいしたもんである。

ところでこれって「マーラ」も同一人物だよね。