読了:鏡の影(佐藤亜紀)

鏡の影 (講談社文庫)

鏡の影 (講談社文庫)

直感的に「全世界を変えるにはある一点を変えれば充分である」と考え至ったヨハネスの紆余曲折である。魔女裁判と異端審問の盛んな中世ヨーロッパが舞台となっている。人にはいろんな形があるが、ヨハネスは学者の形である。利権や嫉妬など人間のドロドロした欲望とは縁の薄い、究極に高尚な人物。美少年のなりをした正体不明のシュピーゲルグランツを伴い、旅に出掛けるところから変遷が始まる。
どんだけ鈍くともここらでああアレかとピンとくるわけで、しかしゲーテのほうではけっこう乱暴に人の愚かさそのものの概念を直接擬人化して出してくるわけだけども、さすがに現代小説ではもっと地に足をつけたというかそれを人物に仮託して描かれていくところが面白い。ワルプルギスの宴はロマの宴会のようだし、こういう換骨奪胎はわくわくするよね。ヨハネスのいわゆる学問に対する渇望と真理さえ手に入れば他には何もいらないというのもひとつの狂気の形で、そういう意味ではほかの登場人物と同様に奇矯な人物となるのだな。出てくる人物はみな皮肉たっぷりの人物造形なのだけど、どこか愛を感じるのは作者の人柄か。
科学は信仰だという言葉もあるが、信じるというのは何を重要だと感じるかと同義だろうか。あれほど焦がれた目的が達成されたとたんに無意味なものに成り果てる。もしくは知ってしまうことで意味のないことだったと理解してしまう。そう考えるとシュピーゲルグランツとは“何”で、フィリッパとは“何”だったのか。読むたびに答えは違ってきそうである。
そういえば更級日記にも『鏡の影』の段があったな。あれは薹のたった未婚の娘の行く末を心配した老母が、鋳させた鏡とともに僧を古刹に派遣して夢占をするんだった。結果は吉凶両方の卦が出るが、しかしそれは生きてれば当たり前のことだと娘本人はたいした関心も持たないという話。古典世界というのは迷信がまかり通っているかと思うと、一方では虚を突かれるほどドライだったりするよな。とあまり関係のなさそうなことを思い出したりした。