最近のぐるぐる

仕事がしたくなくてしたくなくて、役所に出す書類の束を作っているのだがさっぱり進まない。社畜というのはワーカホリックのことで、仕事に生きる価値を依存しているということである。しかし依存というと悪いことのようだが、何にも依存せずに生きている人間なんているのか。夫婦や家族も役割分担していればお互いに依存することになるのだろうし、成功体験で脳内に幸せ物質が分泌され快楽を感じ行動原理を強化するという機序も脳内麻薬依存といえるのではなかろうか。生活の質を上げる作用があるなら良い依存で、軋轢を生むなら悪い依存。腐敗と発酵の違いみたいなもんだ。
物事の良し悪しというのも微妙な問題で、社会によっては逆になることも多い。感情に根差す根源的な善悪、と見えるものでさえ、実は後天的に学習し獲得しているものである。人が無意識に感じていると思っている部分すら社会規範でもってたわめられている。そんな世界にあってあらゆる人の生き方など個人がジャッジできるものではない。
多様なと簡単にいうけども、自分自身がどこかの社会規範を内在化させた存在である以上、どうしても受け入れ難い考え方というのも世界には存在している。それは私が住んでいる世界から見れば「猟奇的」だったり「露悪的」だったり「不衛生」だったり、はたまた「お花畑」だったりもしくは「まるきり理解不能」だったりする。それらに接したとき、どうするか。攻撃は最大の防御とばかりに積極的に叩くひともいるだろうし、バカにしてあげつらう人もいるだろうし、無抵抗な人も考え込む人もいるだろう。相手と場合によっても変わってくる。どのように行動しようがそれはその人の判断であって、別にいいのだ。
ただし私もある規範に沿って人格形成された人間であるので、当然固定化された好悪や判断基準がある。現代の日本で生まれ育ち刷り込まれてきたものがあるのはしょうがない。まっさらな人間など精神がないというのに等しく、まずあり得ない。狼に育てられても野生なりの規範を身に着けるだろう。なので私は私の通りに生きていくしかない。
理解不能なほど幅広くいろんな規範に根差した人間が大量に集まっているのが人間社会というものだ。そのすべてを理解しようとするのは傲慢なことなんではないかと思い始めている。経験値が増えれば増えるほどいろんな人が見えてきて、混沌の度合いを増してくる。感情を抜きにした機序だけを追っても私の脆弱な脳みそではさっぱり追い付かない。直接関係ないなら放っときゃいいじゃんとも思うし、主張していくことが大事だというのも理解できる。火の粉が降りかかれば生きるためにやっぱり払う。譲れないことと譲れないことの鬩ぎ合いであるならば、世界から争いはなくならない。カオス。
世界は広大だわ。遠くを眺めすぎてくらくらする。