映画:エクソダス:神と王(監督:リドリー・スコット)


十戒』のリメイクねと思いながら観に行ったのだが、十戒がわりと判りやすい宗教上の善悪臭さがあったのに対し、エクソダスは説明を排し注釈なしで旧約聖書の記述をそのまま映像にしたような映画になっていた。
最近よく考えていることに、世界に対する認知の違いということがある。ある人にとって『ある』ことが別の人にとって『ない』というのはどういうことなのか。あるカトリックの方がいうには「ある日突然、神が存在することが判ってしまった」のらしい。言っていることはなんとなく感覚的に判る。その悟性を共有することはできないが、そういうものなんだろう。そういう人にとっては信じるも信じないもなくあるものはあるのである。一方で私は神の存在を感じられない。強いていうならたぶん私は科学教で、日々の生活の指針は何かといったら物理法則や数字やデータを基にしたある種の理解であろうかと思う。しかし原発関連で思い知ったのだが、私が信奉している科学教も直観や体感や物事の流れを優先する人にとっては取るに足らないものなのである。私が観ている世界とあなたが観ている世界は違うし、たぶんその溝は埋まらない。是非はともかくそういうものなのである。
そういう私がこの映画をみると、自然現象の連なりが見えるだけで実際のところ少々眠たい。しかし旧約聖書のような古い記述はキリスト教の長い歴史の中で内容を散々論じられてきているわけで、事象の一つ一つについて細かく意義を検証されてあちこち紐付けされているものなんだろう。馴染み深い人にとっては映像を観るだけで様々な意味を見出し得る興味深いものになるのは想像に難くない。どんな世界が見えているのか、判らないことが悔しいし判りたいと願ってしまうのが私の因業なところであるが、誰かの考え方を綿密にトレースして頭で理解しようとしたってそれは判ったことにはならないのであろう。
事象の連なりとしてみるとこれは民族大移動の歴史である。シナイの地を40年彷徨った後はヨシュア記に繋がり、原住民との熾烈な攻防が起きたという記録がある。これによって想起されるのはその前の時代の記録である『ギルガメシュ叙事詩』であり、別のルートを辿ったグレートジャーニーの数々である。良し悪しは関係なくこれがヨーロッパを席巻したキリスト教の今に連なる系譜の内部記録であり、連綿と受け継がれている文化的血脈なのだな。そう思うと気が遠くなる。しかし民族大移動なんて神代の出来事のような気がするが、考えてみればずっと時代が下った三国志でだって劉備荊州の民を数十万人も引連れて逃げているし、なんなら戦争による難民ならいま現在もたくさんおられる。昔も今もそういうところは変わっていないのだ。ああ、そうしてみるとゲルマン・ゴート族の大移動も何かでまとめてチェックしたくなるな。私にとってはそういう映画であった。