人間やめたくなりませんか

ちょっと抹香くさい話をしよう。
若い頃に仏教にカブレた。世間によくいる面倒くさいタイプのひとりである。おかげで今でも西洋哲学の用語がピンとこなくて、文言をいちいち馴染みのある仏教用語に置き換えて咀嚼する始末と相成っている。仏教哲学だって十全に理解出来たわけではないのだが、それでも若い頃に親しんだものは根幹に染み付くものらしい。そのころ私は悩みを抱えていた。簡単にいうとローティーンの頃から慢性化していた不眠症と鬱を克服しながら、景気の悪い地方で就職氷河期に巻き込まれつつまともな職に就こうと足掻かねば家賃が払えないという内患外憂待ったなしの状況だったのである。
ひとりで勝手に七転八倒していたが、いま思うとあのころは子供から大人へ人格のデグラフをしていた気がする。夜学に通っていてそのうち昼も職業訓練校へ行ったりしたので昼夜問わず何かしら勉強しつつ、図書館へ通い仏教の入門書から始まって主な経典の解説書、唯物論のとっつきやすい簡単なやつを選んで読んだりしていた。オウム事件の後だったので宗教団体に近づくことはせず、ただ独りで書物を読んだ。そして考えた。心の持ちようやありように正解はあるのか。解脱とは何ぞや。
鬱とはなんだ。世間でよくいわれる甘えなのか。器質的な問題なのか。器質は意思でコントロールできるのか。それは部分的に正しく部分的に間違っており、仮説を立て実験し勘違いが見つかればアプローチを修正しながら現実と摺合せ試行錯誤して、なんとか自己の在り方と他人との関わりを整理し線を引くことで“わかって”きたことなどもあり、数年で社会生活が送れる程度にはなんとかなった。
そうして解脱とは、と考え続けるうちに、真っ暗で端がどこなのかも判らない光も何もない真空に一粒の泡のようにぽつんと浮かんでいるイメージがありありと目の前に現れた。自己しかない絶対的な孤独。それに怖くなって引き返してきた。
私の思索はそこで止まった。圧倒的に無限大な那辺に足が竦んで動けなくなった。ヘタレなのである。あれが間違った思考の結果に陥りやすい地獄ではないという確信も持てなかった。孤独だとか苦しい寂しいという感情自体が煩悩というか、世の枠組みに囚われているのだというのは、言葉としては理解できる。だが仏教的な意味で“わかる”というのはそういうことではないのだ。
私は憤怒の人である。怠惰でも怯懦でもあるが、数ある煩悩の中でも憤怒に振り回されることが多い。だいたい仏教を志向したのだって感情のふり幅が大きくて自分が疲れて仕方ないので心の安寧を求めたからなのだ。怒りは苦しみである。怒り続けているときというのはたいてい「如何に自分は悪くないか」を立証するための言い訳を考えているだけなのだ。考えれば考えるほどアクロバティックに現実と乖離していく正当化。キチガイへの道筋である。それに囚われているうちは自由になれない。何故に自分は怒るのか。もういっそ人間をやめたい。と熊に訴えたら、気の抜けた声で「なんかそういうのも通り過ぎてきたような気がするけど、よく覚えてなぁい」などと腹の立つことを言っていた。忘れんなよ! そして私に教えてくれよ! とまた怒ったが、実際に通り過ぎてきた過程というのは“わかった”時点で用済みになるというか当たり前になってしまうので、そういうものなんだよな。なにげに熊は他の部分はともかくこのあたりの輪郭についてはくっきり明晰で、いろいろ乗り越えてきたおっさんの凄味のようなものがあったりする。
いきなり卑近なところにオチたが、結局そういうものだ。これ以上は説明できない。