やし酒飲み(エイモス・チュツオーラ)

やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

感触は焚火のそばで繰り広げられるホラ話か、神話の逸話集に近い。「わたしは十になった子供の頃から、やし酒飲みだった」で始まり、父に専属のやし酒作り名人を雇って貰ったが死んでしまったので、死者が住む町まで連れ戻しに行くのである。どんな話だ。どんどん森の奥深くに進んでいくとどんどんおかしなモノが出てくる。“登場人物”というと、出てくるのが次第に人外のものになっていくので語弊がある。目まぐるしくピンチに陥りそのたびに解決しながら冒険を重ね、冒険を重ねるたびに出てくるモノは人間離れどころか地球の生物離れしていく。それに対応する「わたし」も、ただの飲んだくれニートなのかと思っていたら早い段階で「神々の<父>」を自称し名を変えることで神話的世界へ突入し、不思議なジュジュを操っては危機を潜り抜け、挙句の果てに門の前に立っていた男に70ポンド18シリング6ペニーで「死」を売り渡して不死になってしまうのである。いったいなんなのか。
しかしこれらが益体もないホラ話の羅列なのかというと、それぞれの逸話のひとつひとつが妙に面白いのである。文化的な違いとでもいうのか、馴染み深い欧米もしくは東アジア文化とは違うアフリカの息遣いが感じられる。怪物も次々に出てくるが、これがまた聞いたこともないようなモノでとにかく型に嵌らない。例えば「姿を現わした時の魚は、カメの頭のような格好の頭をしていたが、大きさは象くらいもあり、三十本以上の角と大きな目が、頭をとりまいていた。そしてこれらの角がまた、コウモリ傘のように、みな広がっているのだった。赤い魚は歩くことができず、ヘビのように、地面をすべるように進んできた。胴体は、コウモリのような胴体をしていて、皮ヒモのような長くて赤い毛で、おおわれていた。」と、想像力の天元突破を仕掛けてくる。そうかと思うとある町の裁判では人間同士の主義主張正義がぶつかり合って何故かトンチ問題のように間の抜けたおかしなことになったりする。目の前に現れるものすべてが呪術的で荒唐無稽に見えるが、縄張りは絶対に越えられなかったり人やモノの役割や立場は譲れないなど、どこか一定かつ独特な倫理に支配されており、更にそこはかとないユーモアに満ちている。話題のふり幅が大きすぎて眩暈がする。
ふらふらと成り行きで妻を娶り年単位であちこちに腰を落ち着け農園を開いたり金を稼いだり、次々と起こる諸事情に対処しているうちに、当初の目的は有耶無耶になるのかと思いきや、艱難辛苦の末にちゃんと死者の町に辿り着いてやし酒つくり名人を探し当てたのには逆に驚いた。10年越しで経験を積み身の上立場が変わっても、そこは初心貫徹なのか。しかもその後でちゃんと生家に帰ってどんちゃん騒ぎをする。途中のあまりの箍の外れっぷりに読んでいるほうが忘れそうになるが、よくよく考えると異界への往還記という体裁がきちんと成り立っているのである。なんだかジュジュで騙されたような気分になる。
濃密なジャングルの中には精霊が息づいている。それらは人間の善悪を超越しており、性質の違いはあってもおしなべて恐ろしい。ともすると生者と死者との垣根が崩れ、あちら側が垣間見える。しかし混じり合えるかというと理が違うのでそうもいかない。隣り合わせにあるからこそ持つのであろう自然への畏怖は恐怖にまで高まっているが、しかしそこに分け入って生き抜くことも出来るという強烈な自負も感じる。
著者のエイモス・チュツオーラはナイジェリアのヨルバ族の人で、アフリカはギニア湾に面したラゴスから少し内陸に入ったアベオクタという街の出身である。生家はココア農園。英語で書かれたアフリカ文学の端初となった作品である。巻末の詳細な解説ではアフリカにおけるモラルのあり方や、舞台となった19世紀初頭のオヨ大帝国の崩壊や白人による奴隷売買といった時代背景にまで触れられていて、非常に興味深かった。