ミノタウロス(佐藤 亜紀)

ミノタウロス

ミノタウロス

舞台は黒海の北側、広大なウクライナである。正直、あのへんの近代史はごちゃごちゃしてたということ以外よく判らん。軽くぐぐってみると、ロシアの二月革命の余波から、ウクライナは独立を巡って赤軍白軍入り乱れての長い闘争に入ったのだな。
労働者が武器を手に入れ、数を頼みに地主を物理的に攻撃する。それまでの秩序だった文明社会からいったら悪夢のように即物的かつ純粋な力による支配である。平たくいうとヒャッハーだ。もちろん地主連中も無垢な善人ではあり得ないし、荒れた世の中の倣いで暴力の被害者になる女もただ殴られているだけではない。それまでだって慣習と人心把握を利用した恐怖政治ではあったのだ。というか、秩序というのは基本的に暴力を背景にすることによって成り立つ性質がある。その力の配分が変わるとそれまで均衡を保っていた社会が傾く様はじっとしていた亀が蠢動するようなもので、その背中に載った文化という苔が剥がれ落ちる。そうして露わになるのは原始的な力の原理である。純粋な力の行使、と作中で主人公ヴァシリも感慨深く眺めやる。
物語は順を追って語られていく。トリストラム・シャンディのように生まれる前から始まって、まずは田舎地主の息子として平和な少年時代を送り、都会の学校へ入り友人ができたが思想にはかぶれ損ねる。思想にかぶれるというのは何かに寄り掛かる心理というのか、よすがを求める盲目的な部分がないと難しいのだが、主人公のヴァシリは妙に透徹した視線の持ち主でそうした依存心が希薄なのだな。
そのヴァシリは純粋な本能の化身のように女漁りを繰り返す兄を引き気味に眺めているが、そういう本人は無自覚に女で因縁を結んでのっぴきならない状況を作りだしてしまうわけで、どちらがマシなのか判ったものではない。たぶん兄の方がマシなんだろうなぁ。
住む場所を失ってからの疾走感が凄い。荒野を駆け廻り何でもありの暴力三昧日々をどう生き抜くか、というか死ぬ前にどこまで行けるかのチキンレースのようである。希薄な精神でどこか自らすら突き放して淡々と突き進む。感傷が入り込む隙間はない。いつの間にかつるむようになったふたりの相棒のうち、フェディコは狂気の中にかろうじて残った正気部分(かといって善人ではないが)だし、ウルリヒは狂う気があるだけまだウェットなところがあるのだろうと思える。そういえばこの主人公ヴァシリとウルリヒとフェディコのトリオもなんだかいいんだよな。ウルリヒは気まぐれで仲間を窮地に追いやるような突拍子も無いことをするし、フェディコはいざとなったら仲間を売ることも躊躇しない、そもそもヴァシリだって自分の身を守るためなら誰だって殺すという、とても信用できない相手であるということをお互いに呑みこんでいて、こういう場合あいつならこうすると承知し利用しあっているという殺伐としたある意味での信頼関係が成り立っている。フェディコが捕まって二人の情報を敵方に売って案内してきたくだりの顛末は傑作だった。
ミノタウロスとは半獣半神の怪物のことである。主人公はやったことの結果から周囲の悪党どもに「心がない」と評される。本人は已むに已まれず仕方なくそうしたつもりだったが、周りから見たらどこかおかしいのだ。自己保全型の合理的な判断というのはときに人間性から乖離して怪物的になる。この主人公を語り手にして最後まで他人事のように描かれるが、では語っているのはどの時点の誰だったんだろう。