快楽について考える

昔からふとした拍子にボーっとする癖がある。傍目には目の焦点が合わなくなり、座ったままピタリと動作が止まる。このとき何が起きているのかというと、ほぼ無我の境地に陥っている。頭の芯がじわ~んと痺れて何も考えてないし目を開けたまま何も見えてないし何も聴いていない。だいたい数秒で再起動するので、慣れた友達は「またトリップしてる」などと言って放っておいてくれたのは有難いことだった。このときに無理に呼び戻されたり変に触られたり揺すられたりすると、何か中途半端に戻ってこなくてはならなくて気分が悪くなるのである。

しらんけど、私は脳が多動気味なので、処理が追いつかなくなる前に、自衛のために脳が疲れると勝手に再起動するように回路が出来ているのであろう。生きるための適応というやつである。このとき脳内ではデフォルト・モード・ネットワークが活性化してるとかβ-エンドルフィンやらアドレナリンがどうとか、まあなんか起きているんだろう、しらんけど。本人的な感覚としては「再起動して溜まったバグを流す」「デグラフ(通じるのか?)」「脳の洗濯」だろうか。そして案外気持ちいい。自分の意思ではコントロール出来ないようでいて、その実、座っていて身の危険がないときにしか起きない。安心しているときにしかそういう状態にならんのだろう。横になってるとそのまま本格的に寝てしまうせいか、あんまりならないんだよな。

逆に日常的にこれができなくなるとけっこう辛い。2~3年前から忙しくてドンドコと調子が落ちていった。自分を保てなくなるというのだろうか。厭なことがあると引き摺るほうで、平常心を取り戻すのに時間が掛かる。平常心を取り戻せないとトリップも出来ない。平日の疲れと不条理を癒しトリップして立て直すには時間が足りない。邪魔が入る。そんな日々が続いて、バグがどんどん溜まっていく。こうなるとトリップしたくても時間をとってもうんともすんともいわなくなることを知った。以前は好きだったことをやっても楽しくない。集中できない。本が読めない。工作もなんとなく手癖でいろいろやるけども、どうも上手くまとまらない。やりたいことはあっても具体的にならない。もう食べて寝るくらいしか楽しみがない。

ストレス解消ってのはとどのつまり快楽を浴びて脳の疲れをリセットすることなんだろう。例えばバイクが好きならバイクに跨ってカーブを曲がるときの体重移動で重厚なマシンとの一体感を得るとか、カラオケが好きなら頭を空っぽにして大声を出しリズムと音程で気持ちよくなるとか、バッティングセンターで無心に棒を振り回しボールに叩きつける衝撃を掌に感じるとか、推しで頭をいっぱいにするとか、とにかくなんか無心になって気持ちいいことをする。命の洗濯とはよく言ったものである。

ここで何が難しいかというと、本人が無心になれて気持ちよくならなければストレス解消にはならないということである。やらされてる感があるうちは、何やってもダメの法則はここでも生きてくる。馬を川に連れて行っても、馬自身が飲もうとしなければ水を飲ませられない。つまりなんでも周りから与えられる人生が幸せかというと、そうでもない。簡単に手に入るものは感動も薄いのである。

高校生くらいのころ、なんかもやもやすると近所の有名なケーキ店に行って3つ4つ買い込んで全て一度に食べるというのがスペシャルだった時期がある。普段はやらないことを自分で企画し、他人を気にせずひとりで願望を遂行し満足感を得る。これも快楽の一種だったんだろう。ただケーキが食べたかったのではなくて、準備も含めてぐふぐふ笑いながらやってやるぞと期待に胸を膨らませる段階も楽しみのうちで、それでついに食べるところまで辿り着いたからこその喜びがあるのだ。高校生だからケーキくらいで達成感があったが、いまならレンタカーを手配して自分で運転して温泉1泊マッサージ付くらいのサイズ感だろうか。

面倒臭いことを嬉々としてやっている人は、そういう快楽を求めているのである。他人には理解できなくてもいいのだ。本人が気持ちよければそれでいい。