自らに言聞かせるの記

なんだか疲れた。春にして君を離れ状態だが、愚痴をいう気にもならん。
ネガティブに考えすぎるなんて余裕じゃないか。時に立ち止まって考え込むことも大切かもしれないが、今回のように無駄に思考が廻っているということは、まだまだ余力があるということだ。


文化や哲学は余剰である。
生きていくのに必死な動物的状態であれば、思考を捏ねくりまわす余裕など生まれない。だから一昔前までは文化は貴族などの暇人のものだった。貧すれば鈍するというのもその裏返し。
一億総精神病的な昨今だが、それはつまり生きることそのものにかける時間と労力が大幅に軽くなったということではないのか。余った時間で楽しいことをすればいいのだが、そうそう飽きもせず何年も延々と打ち込めるものなど見つかるものでもない。生きる辛さのうち一番ひどいのは退屈だという話もある。退屈すると死にたくなるんだそうだ。
近代国家の目指すところは、とりあえず国民が飢えず極端な危険にさらされることもなくできるだけ安全に生きられることというのが第一義であろう。完璧など求めてもこの世にはないのだから、ここまで目標が達成された日本という国に住めて充分なんじゃないのか。
本来、生とは死に直結する危険と隣り合わせなもので、一歩外に出れば天敵に襲われるかもしれず、事故に遭うかもしれないし、旅に出れば生きて帰れないこともままあった。食べ物だって天然だ自然だと騒いでみても、人間がそのまま口に入れて食べられるものなどこの地球上ではごく一部だ。
汗水たらして毎日毎食食べ物を確保するだけで日が暮れた状態から比べれば、食べるのも簡単でまあ安全にアチコチ行けて、そりゃ脳みそも暇になるわな。生命の危険以上のスリルはない。かといってサバイバルしたくもないし厭なことは厭なんだが、しかしそれがなければ代替の不安やストレスを無理矢理ひっぱり出している気がするんだよな。脳内麻薬依存症か。
迷いなんかに甘えるんじゃねぇ。下手な考えで日和ってる暇があったら単純な過酷さを直視しろ。


こうして今日も多幸感を手に入れる。