読了:ライ麦畑でつかまえて(J.D.サリンジャー)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ホールデン・コールフィールド、16歳。プレップスクールを退学になったこの少年が、ひとりで巨大都市ニューヨークの街をさまよい続ける。その3日間の心の動きを、1人称で語り続けるこの物語は、1951年に出版されてから今日まで、ずっと若者のバイブルとして読み継がれている。
インチキとまやかしと欺瞞と嘘に満ちた大人の世界に反発し、反抗し、行き場のない思春期の孤独感、疎外感、エネルギーを自分の内に抱え、スラングに満ちた鋭く攻撃的な言葉を吐き出すホールデンの姿に、若者たちは共感した。
しかし、ホールデンはその場所にずっと留まってはいない。彼は、このインチキと嘘に満ち満ちた大人の世界から逃げ出すのではなく、反発する心を抱えたままで、この世界を生きてゆくことを決意する。

なんてこった、身につまされるとは。
若者のヌルい言葉の奔流のなかに棒立ちになりつつ、そう、そうだね、と思えどまさに身に覚えのある感情の数々にどうしていいか判らなくなる。物分りの良い顔をすれば良いのか、逆に突き放せば良いのか。良いものを、夢中になれるようなものを与えてやれない大人の責任なのか、それともあくまで本人次第なのか。当時を思い出してもどうして欲しかったのか判らない。そりゃウチの親も悩んだろうて。
私には若干偏りがある。全教科のうち国語だけは人並み外れて出来たが、他の科目は落第ばかりだった。しかも他人の気持ちを慮るのが苦手で、体験したことしか裏の意味まで理解できない。国語力だけはあったので、常に類推と過去の経験というデータベース、儒教や道徳の考え方と照らし合わせ辻褄を合わせながら行動することで社会生活を送っている。とはいえ、誰でも多かれ少なかれそうなのだということも、いまでは判っている。
あの頃、夢中になれる学問や趣味があったら、尊敬できる先達がいたら、と夢想することはある。幼稚園から社会生活に失敗し、家でも保守的な両親と出来の良い姉二人に囲まれみそっかすの劣等意識に苛まれて居場所がなかった。欲しかったのは居場所かもしれない。暖かいぬくぬくとした安心できる場所。しかしそれが胎内回帰願望のようなもので、なにもかもから守られた幼児の頃にはもう戻れないのだということも判っていた。中学一年のときには小学生には戻れないと涙したものである。これからは自ら作らねば何も手に入らない。それは居場所も安心も同じこと。そう理解したのは私の場合はかなり遅く、二十歳くらいの頃だったかな。
年を負うごとにいろんな出来事に出会って、いつの間にか大人になった。いまでもスマートとは言い難いが、こういうストレートな中二病的反抗期に触れると尻がムズ痒くなる。麻疹のようなもの、という言葉が頭をよぎる。不思議だねぇ、本人は不本意かもしれないが、誰でもそうなんだよ。いや『誰でも』じゃないかもしれないが、少なくとも世間では珍しいことじゃない。多くの人がそれを乗り越えて涼しい顔をしてるのは事実だ。それって凄いことだと私は思ったよ。嵐のような感情も、身も裂けんばかりのとても耐えられそうにないと感じた苦悩なんかも、本当は全然大したことじゃないんだ。世の中をナメちゃいられないと思わないか。悔しいが、それは当たり前のことなのだ。