うるせぇ

 ウチの相方は私に「運が悪い」という言葉をよく使います。
 私と付き合うようになってから、悪いことばかりだ、と。
 悪いことが起きた後は機嫌が悪く、機嫌が悪いから意地悪なことを言いたくて、そういう言葉になるのだと理解はしていますが、一方で本気で私が「あげまん」か「さげまん」のどっちかといえば、「さげまん」以外のナニモノでもないと思われている節もあります。
 「さげまん」やら「運が悪い」と評されるのは、人間性も努力もそれまでの人生も関係なく、存在自体が忌避すべきものであると全否定され、そしてありもしない責任を凡て被せられているようなものです。のび太のくせに、より非道い。
 まったく余計なお世話だよ、失礼しちゃうわ。(姐さん風に)
 結局ね、どうしたら幸せになれるのかって、宗教でも自己啓発でも同じですが、気の持ちよう以外に解決方法はないわけですよ。
 何でも有難がって、嬉しがってれば心は平安。ポイントは悪いことがあっても他人を責める手間暇を惜しみ、自分の尻はちゃっちゃと自分で拭いて、他人に撥ねかされたうんこも自分で洗ったほうが早い、さぁ立ち上がってパンツを穿け。ってなもんです。
 しかしさ、私を「さげまん」と蔑む相手を、私は「出来る」と信じてやれるのかい? うんこを擦り付ける相手を尊重するには、それこそ信仰が必要なんじゃないかね。
 気持ちを無理にでも前向きに持ってって、何事も笑い飛ばすようにしていると、確かに明るい気分にはなります。たとえ上滑りであっても、無条件に幸せな気分にもなれます。後で熱が出ますけど。