社会のルールと個人

前提

いわゆる社会のルールと呼ばれる暗黙の了解とは、こういう場合はこう考える、こんなときはこちらに非があると認定すべし、次の状況ではこれこれのように考え行動するのが望ましい、というようなセオリーのことである。共同体の中で暮らすには大変便利なモノで、それがあれば生活上の雑多な問題について、個別に腑分けしなくて済む。もし共同幻想がなかったら、何故人を殺してはいけないのか、何故人のものを盗んではいけないのか、いちいち議論しなくてはならなくなるだろう。
人によって程度の差こそあれ、共同体の中で生きていれば厭でも法律法令慣習による決着のつけ方などを見聞きすることになり、学習していくことで自然と身につけることができる。
そしておおかたの人がこういったモノが身についているという前提があるからこそ、意思の疎通が可能なんである。
言葉が通じるのも漠然としたものを共有しているからだし、漠然としたものを共有できるようにするものが言葉でもある。だから言葉は相手に通じるように使わねば意味がない。というのは蛇足。

よくブログなどネット内で巻き起こっている論争を見ていても思うのだが、社会のルールというのは意外に幅が広いし、人によって受取り方がまったく違っていたりする。考え方ひとつで見え方はずいぶん違うものだし、またそれくらい柔軟でなければこれだけ多種多様な人々を呑み込むこともできないんだろう。
いわゆる一般論とか正論とかいうのとも紙一重である。それは実はマイルールというもので、『私はこう判断する』という域を出ないものである。一般論も正論もちょっと立場を変えればまるっきり違うものになってしまうし、どんな考えであっても万人に受け入れられることはない。したがって少しでも過激な言説や断定は“社会のルール”としては通用しない。
しかし自分好みの思想が万民に通じて当たり前だと傲慢にも思い込んでいる、自分と他人の区別が付かない人もわりといるものだな、と感じることも多い。
それに寄りかかるのもつまるところ個人であり、事象は個々違うものであり、すべてを一概に断ずることは思考停止の所産である。
ところでそもそも社会のルールという規範は思考や議論を省力して、物事をどんどん前に進めるために一役買っているものだ。思考停止イコール悪ではない。

現実には先に生まれたほうの人とか大声を出す威圧的な人とか頭が良くて一目置かれている人などが、場を支配しコントロールしているように見えることが多い。というか、我を通しているように見える。
それじゃ身も蓋もないし、それでは理想はどうなる、それで好いわけないだろう、とたまに意見されることもある。だが理想を持つのと現実を認識するのは別物だと私は思う。
しかし支配者も社会のルールは無視できない。支配する場が崩壊しては支配を及ぼす対象がなくなるからだ。被支配層を持たない支配者というのは、存在しない。そう考えると本当の支配者は、個ではなく集団である。
しかし我々個人はあくまで個である。集の中に生きているのであり、そうである以上は集を想定することはできても集として生きることはできない。どこまでいっても集に支配された個である、と思う。
さて、何を言っているのか自分でも判らなくなってきたぞ。


人間誰しも個人の感覚、私見というものがある。集団の意思とすべての面において文句無しに意見が合致する、化け物のような“普通の人”というのは、この世にはまず存在しないだろう。多少はみ出す部分もありつつ、まあまあ世間一般に混じって暮らすことができるという人がほとんどじゃないかと思う。そういう人々の寄せ集めが集団であり、最大公約数的な意見が集団の意思である。
大体にして個人の人格形成の時点で時代や社会の影響をまったく受けないということはあり得ない。環境が善悪の基準を決めるならその薫陶を受けつつ自我が育っていくわけで、ならば環境の子飼いともいうべき人らはそれに沿った価値観を持つようになるのが自然の流れである。世間とまるっきり意を異にする個人は生き残ることすら難しいだろう。
集と個の関係というのはそういうものである。
個性だ衆愚だエキセントリックだとどんなに気張ってみたところで、けっ、そんなん誤差だぜ、というのは余計な私見だが。

隣の人と幻想を共有していると思い込んでいたら、実は全然違ってたなんてのはよくあることで、幻想はあくまで幻想なんである。集団をまとめるためのルールは、便利な方便だが使える対象は集だけなんである。
対個人に関しては、その人個人の考えが集団の意思と被っている部分に訴える、という範囲で効果を挙げる。
一般論を振りかざすのは、思考停止の上に権力におもねっているように見えて、実は『幻想を共有しているはずだから、こう言えば通じるであろう』という無邪気な思い込み、甘えでしかない。若しくは相手を手玉にとろうとする確信を持った戦略か。どちらにしてもいき過ぎれば暴力になる。
しかし共有していなければそれまでだ。投げかけてみたら実は信じていたものがトンデモだったということが判明したり、相手のマイルールに太刀打ちできなかったりすることも、往々にしてある。
個対個ならばそこら辺は互いの出方を見ながら調整していかなくては仕方ない。もし個人対個人の付き合いなのに、どんぶり勘定で集に対するような対応しかされないのであれば、アナタは相手に一個の人格として受け入れられていないということに他ならない。もしそうなら歯がゆい思いをすることもあるだろうし、腹に据えかねるという事態も起こるかもしれない。だが、どの程度の付き合いから個人として認めるか、そのかねあいは相手のマイルールに拠るのである。

どんでんがえし

理屈というのは、多少弁が立つ人なら覚えがあるだろうが、どんな結論にも持っていけるし材料の取捨選択でどうにでも形を変えるものだ。納得させることは難しくても、言いくるめたり煙にまいたり、なんとなくそれっぽいことを放言するだけならなんとでも言える。
そんなこけおどしはどうでもいいのだ。
多分、ここに長々と書いたことはひとことで要約できる。
『色々あるけど、うまくいくといいね』