たまには真面目に

2007年04月05日(木曜日)の森博嗣さんのブログより

今でも、クラシックの曲を作ったり、演奏したり、歌ったりする人たちは大勢いて、そういう人に比べると、ジャズやロックのアーティストは、ライトだと見られているのかもしれない(僕はライトだとは思わないが)。
 ライトノベルも同じだと思う。そもそも「小説」の「小」がこれと同じ経緯だったのではないか、と想像する。

そういやそうかも。
ジャンル分けは選ぶほうとしては目安になるので、わりと便利だと思う。
例えば私はライトノベルといわれるものを今は殆ど読まないが、それは単なる好みの問題である。好悪と尊敬蔑視は表裏一体なので、感情的にスッパリ切り離すのはなかなか難しい問題であると告白しておこう。だが一応、私個人の好悪が普遍的なものではないのは知っているので、私だけが本屋でその棚の前に立ち止まらなければ済む話だと諒解している。そういう場合、ジャンル分けして売られているとやっぱり便利だ。
ちなみに自分の興味の対象が、いうほど高尚なものではないことも、(多分)ちゃんと自覚しているよ。
ついで

人間は、どんどん自分の望む環境を身近に作り上げる。誰でもが多かれ少なかれこれをする。その人が、これが豊かさだ、というものに近づき、これは惨めだ、と思うものから遠ざかる。ほかの人から見ると、あれは何だ?と感じられるようなことでも、また、本人が自分は不幸だ、と愚痴をこぼしていても、結局はそれが望む状況であることがほとんど。細かい愚痴をこぼすことが贅沢だと思っていれば、愚痴をこぼし続けるだろう。予期せぬ外的要因による不幸ももちろんあって、それが唯一の例外であるけれど、そこからも這い上がってくるのが人間である。

同感。現状こうなのは本人が望んでいるからなのだ。ああ、そうさ、自覚はあるさ。今の不都合よりもっと忌避したいものがあるのさ。這い上がってコレなのさ。このままじゃ済まさねぇぞ、人生のバカヤロー!(失礼)

浅野さん

結果はやっぱりな、であった。アルファさんのところで“小役人顔”と評されていたのには噴いてしまったが、なるほど、選挙に見た目は大事だ。
しかし確かにあの人は地味に見えるんだが、実は意外と骨がある人だと私は思っている。これでも半年前までは宮城県民であったのだ。
といっても私は政策の内容やら具体的なことは何も判っておらず、漠然としたイメージだけでモノをいっているのだが、彼の知事時代は談合王国宮城に敢然と立ち向かっていたように見えていた。はっきりモノを言い、飾らない怯まない姿勢には好感が持てた。仙台はオンブズマンも強いらしいし、その中で(前市長が収賄で捕まっているせいかもしれないが)けっこう清潔そうな感触もあった。
予想通りではあったし、これで知名度も上がったことだろうし、しばらくテレビに出て更に顔を売り、次は国政か。

恨み節

恨みから抜け出すにはどうしたらいいんだ?
三十路にもなって、いつまでこうしているのか、私は。
現状では厭な条件は除かれているはずなのに、心はさっぱり逃れられていないのだ。
どうにかならんものかのぅ。やれやれ。
子どもの頃のつまらんことに拘泥する暇があったら、他の楽しいことを考えた方がずっと好いんだがな。そう簡単じゃないから人の心は御し難い。