や、柳生? ラリホー。

http://d.hatena.ne.jp/lazy-daisy5113/20071217/c#
レイジーさんとこのコメント欄より
十兵衛? いや、それはどうでもいいのだが、『心眼』という言葉にオリジナルは特に想定していない。目が見えなければ心の目で見るしかないかという言葉通りの意味のつもりであった。
しかしそうか、仄めかしが判り難いというのはあるかもと反省。
いつの間にか書くことへの執着がなくなってきていて*1、うまく伝わるように表現しようという気遣いは足りなかったかもしれない。振り返ると特に最近は浮かんだことをただ書き留めるだけのメモ代わりのようになっていたな。
気をつけます、ハイ。


ここから先は連想した先なので、前節とは切り離して考えていただきたい。
考えをきちんとまとめて発表しようとする意思が減退していた、というのもある。
書いたものをアップする際に隅々まで神経を行き渡らせることの労苦にひきかえ、しょせん伝わらない言葉*2を捏ね回すことへの疑問、意外に言葉以外で通じちゃったりすることも多いこと、もちろんネットは生活上ではあくまで二の次であって仕事や家庭を圧迫してはならないことなどが、曖昧模糊としたやるせなさにつながり、もともとズボラなもんだから詳細に克明に書くことをサボる格好の言い訳になっていた。
あとネット上で長い文章がババンとあっても、私は基本的に読まない。例外的に“この人の書いたものなら読む”というのはあるのだが、それ以外の方のはある程度の長文*3になると失礼ながら読み飛ばすことが多い*4
今までの経験からいって紙媒体なら楽に読める量でも、私には横書きの画面ではイマイチ文意が掴みにくく、集中力を要する割にはよく判らないという事態に陥ることが頻々だからだ。
それは相性もあるだろうし、文章のプロではない人がもともと理解しにくいいろんな内面について重箱の隅をつつくように細かく綿々と綴ったものであったりすることも理由のひとつであろう。端的にいってどうでもいいや、である。
であるならば自分が書いたモノだって同じことであろう。よしんば同じではなくても、自分が読みたくないものならわざわざ書かないようにしよう、なるべく短くしよう、という意識が働く。
そして説明を省きコストを下げ短くすればするほど、判る人にだけ判ればいいという独善的なものになっていく。しまいには「自分のために書いているんだから(誰にも判らなくても)いいんだ」と言い出す。
しかし文章に起こすということは、何かを他人に伝えようとする行為である。中途半端にしか伝わらないことに絶望して、誰にも理解できないような文章を書く。
二重に矛盾である。
しかし矛盾があるのが人間である。それに、私の知能では挑戦する気も起きないが、もっと細かく検証していけばその矛盾すらもキレイに解決される地平もあるのではないかと私は信じている。今の科学では解明できないだけだと主張するオカルト信者のように。ここで大事なことは、「そういう地平がある」ことを信じているのではなく、「そういう地平があるかもしれない」ことを信じているのだ、とか訳の判らないことをいっておこう。
ちなみにきっちり断りを入れるならば、この節はすべて駄法螺である。真に受けないように。ラリホー


というようなことを、最近は五行くらいで書いてた気がする。

*1:参考→http://d.hatena.ne.jp/paseyo/20071002/p2

*2:言葉の七割は受け取り側には伝わっていない、というハナシ。出典は忘れた。

*3:原稿用紙三枚分ぐらい?

*4:もっと正確に表現するならば、どなたのお作でも大抵は途中までは読む。