波乱含み

気がついたらいろんな方面が波浪高波注意になっていて、これが私の風景かとなんとなく納得した。そんなもんだ。
そう思えるようになってきたということは、胸郭内部の波はだいぶ落ち着いてきたんだろう。少なくとも表面上を取り繕えるくらいには。動揺が治まるには神経細胞並みに時間がかかる。波が消えてから水の濁りが沈殿するのに似ている。

責任とか誰が悪いとかどうしたらいいとか、きっちり割り切れることってあまりない。
自然災害は誰のせいか、不幸な巡り合せは誰が悪いのか、そもそも生まれてきたのは誰のせいなのか。人生の大部分はそういう答えのないものでできている。
だからだったらどうしたらいいのと問うても、答えなんか初めからないのだ。
あるのは事象だけ。事象の連なりが世界である。どうしたらいいかは限定的な範囲での比較の問題でしかない。その範囲を超えたら塞翁が馬である。
そうはいっても現世で益を得たいし、できるだけ長い時間を充実して過ごしたいのが人ってもんだ。巨視的な話は実際にゃどうでもいい。
つまりどうしたらいいのかというのは、任意の限界を自ら設定し、目標を定め、逆算的にその中での振る舞いを決定するということだ。
私が悪いのかと宙に問うても、意味はない。不都合があるなら被ってどうにかしなきゃならんことには変わりない。責任なんかなくても悪くなくても外れ籤を引くときってのはあるものなのだ。
また悪くなければ天真爛漫に何をしてもいいのかというと、そうでもない。それどころか悪くてもしてもいいこともあったりして、実は問題は善悪ですらない。問題は、誰が被るのが可能でロスが少ないかということだったりする。それの持ち回りを怠ると、大抵は別の部分でしっぺ返しがくる。つまり人の情。情けは人の為ならず。
だから私ができるだけ我慢しないことにしたというのは、自分のやるこたやるけどフリーライドはお断りだ、何故ならムカツクからだ、お前が被れよ、我慢するなら切捨てるぐらいの勢いで! ということだと判ってはいるけれども、なかなかねぇ。溜息。やれやれだぜ。