不発弾

同情とは究極的には何の役にも立たない。確かに。極めて現実的な見方をすれば、実際、その通りだ。
極限状態のときは慰めの言葉すら鬱陶しい。その言葉をかけてくれる人は厚意からであろうし、また実際には厚意などではなくともそういう型をとっているということは、邪険に扱ってはいけないという信号なんであり、こちらも丁寧に好意的に対応しなくてはならない。大人の振る舞いを求められる、というか、どう振舞うかは自分が決めるのだが、後先を考えればここは大人として振舞わねばなるまい、と判断しがちである*1。だが精神的に参っているときは、そうしたことすら大儀である。心は悲鳴を上げているのに、無闇と有難がったり謝ったり謙遜して見せなくてはならない。しかも慰められたって他に何をしてくれるわけでもなく、状況が改善されるわけではないのだ。本当に心配してくれるなら、そうした手間をかけさせないで放っておいてくれよ。
しかしそうした心理はやはり褒められたことじゃないのはよく判っているから、余計に苦しい。
同情という言葉は、場合によってはそういう苦しかった状況の記憶を喚起させるものなのかもしれないのだな。なるほど。
とするとやはり他の言葉に置き換え、使い分けたほうが無難なのだろうか。


例えばだが、私の場合は心配しているという言葉が地雷である。
心配を楯にあれするなこれするなで雁字搦めになった経験から、束縛を極端に嫌う癖がついた。一時はひとりのほうがよっぽどマシだと思いつめた。
しかし一方で、心配されるというのは基本的には悪いことではないはずだ、とも考えた。人の好意を素直に受けられない自分は歪んでいるのではないか、人として大事な何かが欠けているんじゃないか。
書ききれないので途中をまるっと端折るが、ぐるぐる考えて辿り着いた結論は、自分の面倒は自分で見なくちゃしょうがない、だった。心配は心配する人が勝手にするんである。それは所詮他人が考えたことであって、私には私にできることしかできない。逆に私が誰かの心配をしたり、誰かの役に立ちたかったりするのも私の勝手である。相手には関係ない。
「相手に求める自分の役に立つ何か」というのは、「自分が役に立ちたい相手のための何か」とは大抵はどこか噛み合わないものである。他人が何かしてくれることを、人生の収支において勘定に入れてはならない。「〜してくれない」ではなくて、自分で何とかしろ。その上で、心配されたり同情したりして生きていく。
ぐるぐるした割には順当で至極真っ当だったと思うのだが、これが現実に適用しようとすると意外とすっきりいかない。私は比較的ドライな人間らしいし、割りにきっちりこの境地に至っているのだが、世間はもう少しウェットなようである。


あともうひとつ、連想の枝の先の先で思い出したんだが、自分が酷い目に遭った! と動揺してぎゃーぴー大騒ぎしていたことが、ふと気づいたら実は世間では珍しいことでもなんでもなくて、周り中みんなそんなもん乗り越えてけっこう平気な顔をしているんだと思い至ったときの、あのなんともいえない気持ち。ひとりぽつんと放り出されたようで、ど真ん中でぽかーんとしちゃうんだよね‥‥。

*1:ちなみに私は無理なときは早々に割り切って「無理!」とエクスキューズを入れることにしている。したがって、先日「有難かった」とどこかに書いたのは社交辞令ではなく、本気である。