映画:ラースと、その彼女

アメリカ中西部の小さな町に暮らすラースは、優しくて純粋な青年で町の人気者だが、ずっと彼女がいないために兄のガス、義姉カリンらは心配していた。そんなある日、ラースが「彼女を紹介する」と兄夫婦のもとにやってくる。しかしラースが連れてきたのは、ビアンカと名づけられた等身大のリアルドールだった。兄夫婦を始め、街の人たちは驚きながらも、ラースを傷つけないようにビアンカを受け入れようとするが…。

内気すぎる青年が等身大のリアルな人形に話しかけるのは、誰かにしたいこと。優しく何くれなく面倒をみるのは、誰かにしてもらいたいこと。愛し愛されたいけど、他人は受け入れられない。どうしたらいいのか判らない。ずっと子どものままでいられたら良かったのだけど。
兄嫁が妊娠したということは、自分の子ではないけど兄弟の子がこの世に生まれ出てくるということだ。そう年齢も変わらない兄の子ということは、自分も親世代だということなんだろう。それでいつかは大人にならざるを得ない自分に気付いてしまったということか。
人形は彼にとって自分だし、他者でもある。彼と世界を結ぶワンクッションだ。彼に対しては他者の役割を果たし、周りの人々は彼に働きかける代わりに人形の面倒をみる。一度放棄し、以来ずっと他人と関わることを拒絶してきた青年は、そのまま改めて世界にコミットすることが出来ない。その前に間接的に繋がるための練習台なのだ。どんどんお腹が大きくなる兄の妻カリンを横目で見ながら、ラースはどんどん他者の愛し方を学んでいく。きっとカリンから生まれてくるのは、彼にとっては『愛すべき現実』なんだろう。
心の手順を踏むのって大事なことだ。頭で答えが判っていても、心は一足飛びにそこへ辿り着けるわけじゃない。
法話でも、釈尊が子を亡くした母に泣き付かれる話があったっけ。「子どもを生き返らせてください」と泣く母親に、釈尊は村中の家を一軒ずつ回って同じように頼んでみろという。そこで母親は村人の住む家の戸口に立って懇願する。その村人は「出来ない」と応える。母は次の家へ行って頼み込む。やはり「出来ない」と言われる。また次の家へ行って‥‥ということを繰り返して、村中の家を回る頃にはこの母親にも『出来ないこと』が受け入れることができた、という逸話。
とても苦しいことの中には、もがき苦しみ足掻いた末にしか受け入れられないことがある。そういう事柄は宙ぶらりんのまま放っておいても時間は解決してくれない。いつまでも宙に浮いたまま、それどころかますます捩れていくのだよな。