映画:闇の列車、光の旅 (監督:キャリー・ジョージ・フクナガ)

明るい陽光のもと、刺青を施した肌をさらしたギャングたちが生き生きと走り回る映画であった。形式や義理を重んじるというのか、型に嵌った行動様式から一歩も出ようとしないDQN独特の融通の利かなさ息苦しさは、国境を越えて万国共通なのだろうか。それが年功序列で順次繰り上がりの硬直した社会を形成し、ガチガチに固められた纏足のようで容易には足抜けし難い。選択の自由もなければ成長もない。この映画で描かれる組織は、子供のままナリだけが大きくなるための揺り籠のようだ。
年端も行かない子供がギャング団に身を投じるのも、生命がけの危険を冒して国境を越えようとするのも、その必然性がなんだかよく判らないままだった。ぽかんとして事象を眺めるだけの映像に、川面を流される葉っぱの上に、何がどうしたのかたまたま乗ってしまった蟻でも見ているような気分になる。ときどき流れが淀み、または早くなり乗った葉っぱがくるりと回転したりする。見ようによってはそれだけで充分ドラマではあるが、そこでは生死すらあっけなくさらさらと流されていくのである。
生命の値段という言い方があるが、諸行無常大自然からみれば人の営みなど何もかもが無価値なのではなかろうか。国敗れて山河ありではないが、呑み込まれるほど大きな大陸の上で蟻の行列のような列車の旅をしている人々もいて、それぞれ悲喜交々あるのだけれど圧倒的な大地や夕日の前ではなすすべもなく、つまらないことにかかずり合いながら通り過ぎていく。
思うのだが、なんでも大きく構えれば良いってものじゃないんではなかろうか。幸不幸どころか生きることすら大した意味を持たなくなれば、誰を裏切ろうと何を大事に思おうと意味のない虚無に呑み込まれてしまう。抜けるような青空は果てしない大地の上にぽっかりと口を開けた虚空。それでも人は生きていく。