読了:巨匠とマルガリータ(ミハイル・ブルガーコフ)

巨匠とマルガリータ (上) (群像社ライブラリー (8))

巨匠とマルガリータ (上) (群像社ライブラリー (8))

巨匠とマルガリータ〈下〉第2の書 (群像社ライブラリー)

巨匠とマルガリータ〈下〉第2の書 (群像社ライブラリー)

これは愉快。スラヴらしいドタバタで次から次へとおかしな話が繰り出される。舞台はモスクワ、ブルガーコフスターリンの時代の1930年代末、細々とオペラの台本を書くかたわら、秘密裏にこの作品を書いていた。時まさに大粛清時代である。なんだかクスクス笑いを押し殺しながら秘密の遊びを楽しんでいるような、伸び伸びとした奔放さがある。楽しい。
冒頭から「神はいなかった」という無神論者の主張から始まる。「神は死んだ」ではなく「もともといなかった」なのである。だからイエスもいなかった。聖書に書かれていることはなんにもなかった。当時のソヴィエトでは宗教は民衆を惑わせるアヘンだとして取り締まる方針であったのが背景らしい。そこへヴォランドという悪魔がひとり現れて、「本当に?」と訊いてくるところから話が始まる。なんで悪魔かって、左目は緑色だが右目は瞳孔が見分けられないような闇の色なのである。悪魔に決まっている。そこから悪魔とその手下たちによる悪ふざけの数々が繰り広げられる。無神論者は首と胴体が生き分かれになり、バラ撒かれた高額紙幣は紙切れに代わり、悪魔の所業なので人々の浅はかさ愚かさが存分に引き出され、どんどん狂騒の度合いを増してある者は気が狂いある者は人生が台無しになる。次々と人がいなくなる様はスターリンの粛清を彷彿とさせるようで、皮肉っているのかな。
そこへ巨匠が書いたポンティウス・ピラトゥスの物語が劇中劇の形式で挟まってくる。モスクワの話が訳の判らない狂騒曲だとしたら、この部分は端正にきちんと書かれている。ゴルゴダの丘での磔刑直前の場面でもちろんどうなるかは知っているのだけど、イェシュア(イエス)とピラトゥス(ピラト)のやり取りが非常に魅力的で面白いのである。読み物というのは結末だけ判ればいいってもんではないよなとしみじみする。
マルガリータが悪魔のもとへ下ることによって恋人である巨匠は救われる。そこにはある取引が介在するのだが、それも恐ろしく取り返しのつかない間違った選択としてではなく、かなりうきうきとした筆致で描かれる。そもそも悪魔には悪魔の目的があるだけで、人間がひとり死のうが生きようが不幸になろうがてんから興味がないらしい。どうもこの本ではファウストとは違って悪魔は天界に隷属しているわけではないようだ。昼と夜のように両方あって成り立っているようで、ヨシュア(光)とヴォランド(闇)がなんだか社内の人事異動のように人間のやり取りをしているのが面白い。こういうところに底が抜けてどこまで深いのか判らないロシア喜劇っぽさがある。
判る範囲だけでもとても面白いんだが、それだけに教養が足りなくて全部読み切れてないんだろうなーと思うと、勿体ない勿体ない。