映画:複製された男(監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ)

熊がよく判らんというので解説。映画と文学とはたいていアプローチが違うんだが、ノーベル文学賞を受賞した作家の原作ということなので、文学的なセオリーを適用するとこういうことかなという話。ネタバレが気になる方はご注意を。

一番目に付くメタファーは蜘蛛だが、これは「母」の象徴であろう。もっといえば母と子の関係性か。絡め取り背後で糸を引くのである。そう考えると、冒頭の蜘蛛を踏み潰すというのはどういうことか、ピンとくる。また、妊婦さんはもうすぐ母になる女で云々。
顔も声もそっくりな相手は、もしかしたらこうだったかもしれない自分。傷も一緒なのはその象徴で、これは必ずしも同一人物であるという意味ではない。指輪のあとがあったりなかったりするしね。また、ドッペルゲンガーに会った人は3日以内に死ぬという迷信もあるけれど、それも履行されているね。まあドッペルはおいといて、先生の方は役者の方に会ってからいままで疑問にも思わなかった自らのあり方に気づいてしまう。母が喜ぶ固い職業で小心者で誠実な性格、恋人はいるものの妙に浮世離れした生活。他方は同じ顔でありながら役者という人気商売、浮気をし恰好いいバイクに跨り自由気ままに生きている。そんなのを目の当たりにし否応なしに引き比べることになり、自分を縛っている何かの存在を漠然とだが初めて知覚する。それで大きな蜘蛛の悪夢を見るようになる。
封筒に入った鍵は受け取った方は次の人生の扉が開き、受け取り損ねた方は人生から締め出される。開けてみるまで中身が鍵だとは(伏線はあったけど)判っていないのだけど、それは二人の間を行ったり来たりする。人生だね。
あと、殿方には判り難いだろうが、あれは妊娠6ヶ月の大きさではない。ほぼ臨月に近い。先生と初めて会ったとき、奥さんは咄嗟に嘘をついてカマをかけ本当に別人かどうか確かめたんだろう。そんで先生が役者のふりをして家に行ったときには、その会話から奥さんは目の前の男が違う方だと確信してた。でも黙って共犯になることにしたんだろう。何故ならじゃあ役者はそのときどこにいるのかといえばだいたい想像がつくわけで(前科もある)、だとすれば先生の方がより誠実で女にとっては信頼できるからかね。
最後、先生が驚きつつなんとなく諦めたようなため息をつくような表情をしていたのは、元の蜘蛛の巣から逃れてみたらこっちにも別の蜘蛛がいて同じことの繰り返しだということに気づいたからか。かくて歴史は繰り返す。冒頭の講義内容とも重なる。
ブルーベリーの意味はよく判らなかったので帰ってから調べたら、ブルーベリー(=野いちご)の花言葉が「苦難・悲嘆」なんだそうな。つまりストレスを表すと。判るかい、そんなん。かすみ目に効くくらいしか思い浮かばなかったわい。
アイデンティティのお話だが、わざと入れ替わったタイミングで片方が死んじゃうと、というのがいろいろひっくるめて、おお、という感じ。