涙がちょちょ切れるぜ(2/8)

今まででいちばん泣いたのはいつ?

からからと小気味良い音を鳴らして開く格子戸だった。
玄関を開けてくれたのは、和服の似合う小母さんといった風情の優しげな女性だった。幸薄そうな面差しに穏やかな表情を浮かべている。路地に面した小さな坪庭の色づいた南天や軒の低いこじんまりした平屋建てと人物とが、あつらえたようによく調和していた。
あれから念のために彼の履歴書に書かれた保証人をあたったところ、意外にもちゃんと彼の親戚であることが判った。正確にはその履歴書に書かれた氏名を持つ人物の叔母にあたるらしい。手がかりはこれしかない。私は彼女を訪ねてみることにした。
玄関先で追い返されると思いきや、大変でしたのねと眉根を寄せた彼女にやんわりとしかし強引に居間に通された。おっとりとした動作で茶たくに薄い緑茶を載せて出してくれるのを、畳に正座して待った。
「それで‥‥」
向かい側に坐った彼女が尋ねるように柔らかく小首をかしげた。
「ええ、あの」
電話であらましは伝えてあった。私は一度丸めたものを拾って伸ばした紙を座卓に滑らせた。持ち逃げ野郎の履歴書である。
彼女は首を斜めにしたままそれを手に取り、紙面を覗き込んだ。住所氏名を一瞥し、最後に貼ってある写真のあたりを眺めているようだ。
「あらまあ‥‥」
「こちらのご住所とお名前ですよね」
私は言わずもがなのことを訊いてみた。その通りである。書いてある住所と地図を突き合せ、その下に記入されていた氏名と同じ表札がかかったここに辿り着いたのだから、他人に訊くまでもなく自分で確認しているのだ。むしろ違うといわれたら困惑してしまう。
彼女は悠長迫らぬ様子で目を上げ、紙片を返して寄越した。
「ええ、でも‥‥これは確かに甥の名前ですけど、お写真のお顔は違う方のようです」
やっぱりか、と私は心の中でがっくりと頭を垂れた。奴は初めから誰か他人に成りすましていたのだ。してみると、目の前の彼女もその甥という人も、名前を騙られただけの被害者であろう。全員がグルという可能性もあるが、このはんなりとしたご婦人がこんなセコい犯罪に加担しているとしたら、それはあまり考えたくない事態である。たかが四十万円を横領するためにそこまでするだろうか。するのかもしれない。犯罪者の気持ちはよく判らない。
しかしここまでくると、もう調べきれない。仕事上の痛手と馴れない調査作業とを思うと、神経がどんよりと疲弊してくる。もう警察に任せたほうがいいのだろうか。
そうですか、判りましたと呟いて私は席を立とうとした。
「あの」
彼女はちょっと押しとどめるように片手を上げた。
「甥に訊いてみましょうか」
「え?」
「私はその写真の方を存じませんけど、もしかしたら甥が‥‥」
彼女は言葉を途中で濁した。甥が何かを知っているかもしれない。もしくは何も知らないかもしれないが、訊いてみるだけなら試してみても損はないだろう。目顔でそう言いたいのが伝わってくる。
ふんわりとした暖かさに包み込まれるような気がした。
突っ張った背骨がくにゃりと崩れた。私は坐り直し、初めて彼女を真正面から眺めた。
前にも彼女のような女性に会ったことがある。言葉を多く費やさなくとも、不思議と話と善意が通じる。どういう才能なのか判らないが、独特の間ともの柔らかな所作を持ち、しかしそれだけではない何か人の心を見通せるかのような雰囲気もある。そして何故かこうした空気を纏っているのは女性ばかりで、男性版はいままでお目にかかったことがない。昔なら菩薩のようなと形容されていたのだろうが、私は現代風にそうした女性を遠赤外線の女と呼んでいた。
以前にその女性と会ったときは私は今ほどではないが苦境の只中にいて、その柔和な雰囲気に呑まれてわんわん声を上げて泣いたものだった。子ども時代を除けば後にも先にもあのときほど手放しで泣き喚いたことはなかったかもしれない。
困っている時期にこうした女性に出会い救われるということは、彼女たちはやはり菩薩なのだろうか。
「‥‥お願いできますか」
何に対してか私は観念して、うなずく彼女に頭を下げた。