涙がちょちょ切れるぜ(3/8)

優しさに泣いちゃうタイプですか?自分の情けなさに泣いちゃうタイプですか?

菩薩のような遠赤外線の小母さんが言うには、件の甥は隣町に部屋を借りているとのことだった。何の仕事をしているのかよく判らないが規則性の乏しい生活を送っているらしく、何日もその部屋に引きこもっていたかと思うと、今度は出掛けたまま数日は戻らなかったりする。電話を掛けてみたら今日は部屋にいたが、明日には判らないという。
私は彼女の家を辞したその足で、彼女の甥のところへ廻ることにした。疲れていたが仕方ない。警察に行くのはその後でいいだろう。
ため息をつきながらとぼとぼと歩いていると、身体の芯から重たくなってくる。昨夜からの緊張続きが菩薩に会ったことで気が緩み、涙が出るすんでのような気分になっていたが、泣くのは後だ。垂れてくる頭をもたげて、顎を持ち上げる。もうひと踏んばりしなくては。
思えば私が泣くのは、いつも心理負担が心の器に収まりきらなくなって縁から零れるときだった。哀しいときでも悔しいときでも、その場は対処するのに忙しくて泣いてなどいられない。事が済んで落ち着いて家でひとりになると、勝手に涙が溢れてきた。やることをやってから安心しないと泣けないのだと思う。
書いてもらったメモを片手に住所を探し当てると、そこは町工場のようだった。風雨に晒されて錆の出た看板が外壁の高いところにかかっている。門扉の脇に暗い口をあけたガレージがあり、上に部屋が乗っているようだ。鉄骨とトタンで囲われた内側に狭い金属の梯子段が上に向かって伸び、その手前にとってつけたような赤い郵便受けが三つ付いていた。ブロックの門柱に挟まれた通路は母屋の玄関へ通じているようだ。町工場なので自宅兼事務所になっているのかもしれない。
ここでいいのだろうか。
私はあたりを見回した。人影がある。門の奥を覗き込んだ私は、はっとして胸までの門扉を押し開いた。他人の家でも構わなかった。奴の姿が見えた。
「ちょっと!」
私は勢い込んで人影に近づき、彼の作業服を掴んで引っ張った。
「ええっ?」
驚いたように振り返った顔を一目見て、私は早とちりを悟った。似ているが別人だ。油に汚れた作業服を見れば、ここの工場の人なのだろう。一度引いた血の気が三倍になって戻ってきた。
「あ‥‥あの、すみません‥‥」
「え? あんた、誰?」
しまった、と思ったが後の祭りだ。見ず知らずの女が勝手に門扉を押し開けて入ってきたかと思うと、いきなり掴みかかったのである。怒られても無理はない。私は勢いよく頭を下げた。
「すみません!」
そのとき、ふと手に持ったメモが目に入った。
「じ、実はこの住所を探してて!」
少しでも誤魔化せる可能性をかけて、紙を相手の目の前に突きつける。
「へ? ああ‥‥」
男は怒る間もなかったらしく、度肝を抜かれたように風と私の手の震えとにひらひら揺れる紙片に目を落とした。
「ああ、ここの上に部屋を借りてる人だ。こっちじゃなくて、あっちの車庫の階段から上がるんですよ」
指で方向を指示してくれる横顔を盗み見ると、やはり輪郭や雰囲気がどこか持ち逃げ野郎に似ている。まるで兄弟のような、というのは出来過ぎだろうか。
「‥‥なにか?」
じっと睨むような視線を向けているのに気付いたのか、怪訝そうに表情を曇らせるところまで似ている。
しかしあなたは持ち逃げ野郎のご兄弟ですか、と訊くわけにもいかない。他人の空似かもしれないし、そもそも奴の本名すら私は知らないのだ。咄嗟にこんな場合のうまい質問を思いつけなかった。
「いえ、ありがとうございました」
私は当初の目的である甥を訪ねることにして、礼を言って引き退った。