涙がちょちょ切れるぜ(4/8)

誰かを泣かせたことありますか?

「ちょちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
男は慌てた身振りでのけぞり、後退りした。丸い頬に汗を光らせ、手のひらを無意味に開いたり閉じたりしている。
「これは僕じゃないですよ!」
それは判っている。菩薩の甥は布袋のような中年がらみの男だった。叔母と甥というが、年齢は十歳くらいしか違わないのかもしれない。ふくぶくしい腹や細く柔和な目元は、線の細い若者の持ち逃げ野郎とは似ても似つかない。
ぶるぶると大袈裟に手と顔を振っている男は、一通り説明し件の履歴書を見せた途端に泣きそうな顔になった。
ガレージの階段を登ると、そこは意外に大きな一室になっていた。しかし入ってみると、部屋の片側は業務用と思しきスチールラックが林立し、それだけでは足りないくて床にもごちゃごちゃと物が積みあがり、片隅に据えてある流しの周りにも荷物が積まれ、部屋の中ほどにむき出しの鉄骨の柱が通っているようだが、周りに置かれた物品で根元は埋まり上のほうの三分の一程度しか見えない。
部屋の持ち主もだいぶとっちらかった人間らしく、私が話している間中泣き言を呻いたりとんちんかんな合の手を挟んだりしていた。
「考えられるのは」
苛々してきた私は一気に追いかぶせるようにカマを掛けてみた。
「あなたと彼が共謀していたのかってことなんですけど」
「ええっ!」
男は哀しそうに眉根をひそめた。
「それは理論が飛躍してるよぅ」
私はわざとらしくため息をついてみせた。
「まあ、確かに持ち逃げするような人に『あなたが犯人ですか』って訊いたって、『はい、そうです』って言うわけないですよね」
「そりゃそうだけど、そうじゃないよぅ!」
「じゃあ、なんでこいつはあなたの名前とあなたの叔母さんの名前と住所を知ってたんですか」
「そんなの犯人じゃないから判りませんよぅ‥‥」
「ふうん‥‥」
なんだか埒が明かない。こんな場合の効果的な質問の仕方など、善良な一市民である私が知っているわけがない。私は空転する脳みそをもてあまし、なんとなくそのへんに転がっていた小物を手にとった。燻し銀のような表面は触ってみると微かにざらついている。流線型に片側がへこんでいるのが、心地よく手に馴染むようだ。脇を見ると複雑に入り組んだパーツがぴっちり収まりステンレス色に光っている。手のひらに収まるくらい小さな折りたたみ式の十徳ナイフだ。
「ああ、それ、ポルシェデザイン39っていうんですよ」
男が急に嬉々とした声で喋り始めた。
「スイスアーミーナイフでは赤いのはよくあるでしょ、あと黒とか普通のシルバーとか。紫色のもあるんですよ。それはウェンガーなんだけど、もう一個似たような会社でビクトリノックスってとこがあって、ウェンガーは最近そこに吸収されちゃったんだよね。でもウェンガーって名前は残すって‥‥」
ぺらぺらと早口でまくし立てる声を無視し、私は手に持った十徳ナイフの方々を弄ってみて、やっとナイフを探し当てて伸ばした。その切っ先を使って、男の目の前に置いた例の履歴書の写真のところをとんとんと突いた。
「で、この顔なんだけど、知ってますか」
「テオ・ウェンガーってもともと牧師さんなんだけど、商売のほうもやり手で‥‥」
「知ってますか?!」
「‥‥‥」
意外にも男はばつが悪そうに黙り込んだ。私は思わず身を乗り出して、彼の腕を掴んだ。
「‥‥知ってるんですね」
「ああいやあのでもぼぼぼ僕は‥‥」
ひたと見上げると、男は青ざめた顔を歪めて泣き出した。
「こんなことになるなんて思わなかったんだよぅ‥‥」


スチールラックがあるのと反対側の壁についた、いかにも手作りらしい不恰好にでっぱったスイッチを押すと、思わぬ方向から留め金の外れる音がして、甲高いモーター音とともに本棚がゆっくり動き始めた。
「いやぁ、僕、こういう秘密の部屋っていうのに憧れてて。自分で作っちゃったんですよ。本棚の重量が大きくて稼動させるのに苦労したんですよ‥‥」
男は頭をかきながら言った。青かった顔がうっすら赤みを帯びているのは照れているらしい。
時間をかけて本棚が三十度ほど開くと、機械の音が止まる。人ひとりがやっと通り抜けられる程度の隙間が開く限界らしい。
太いわりには敏捷な動きで男ができた隙間にするりと身を入れる。続いて入ると、男がスタンドの明かりを点けたところだった。白熱灯にぼんやりと浮かび上がったのは、細長い三帖ほどの空間である。見たところ、長手方向は先ほどの部屋の幅と変わらない。なんとなく饐えたような匂いがする。
男が顔をてかてかに光らせてひそひそ声で言った。
「うふふふ、秘密基地へようこそ!」
私は何も言わずその後頭部を平手で叩いた。
薄ぼんやりとした明かりの中に、積み上げられた箱や小さな怪獣のシルエットが浮かび上がる。開いた本棚の側の壁にはびっしりとスチールの棚が覆っているが、その奥はベニヤ合板になっているらしい。よく見ると繋ぎ目から隣の部屋の光が洩れている。そのまま天井を見上げると、いま入ってきた部屋と同じ材質が続いていた。どうやらこの小部屋は、もともと一室だった一部を無理矢理仕切って作ってあるらしい。
「貴重なものはここに入れとくんですよ。万一泥棒が入っても大丈夫なように」
いってみれば手作りの金庫室のようなものだろうか。金属で出来ているわけではないから木庫室とでもいうのか。しかしこの奇妙な納戸に詰まっているのは一般的な意味での金目の物ではなさそうだ。見回してもいるうちに、男はごそごそとそこらへんを漁り、小さな紙片を手に持って戻ってきた。
「これですこれです。いやあ、大事にとっておいて良かった。ヤツにもコピーだけで本物は渡さなかったんですよ。これを入手するのに僕がどれだけ勇気を振り絞ったかって話ですよ、マジで。涙なしには語れませんよ」
促されて元の部屋に戻り、手渡された名刺大の紙片を覗き込んだ私は、自分の目を疑った。しかし同時に頭の中でカチリと音を立てて合点がいったのも確かだった。