涙がちょちょ切れるぜ(5/8)

逆に泣かされたこととかありますか?

地下へ潜る階段の白タイルの壁の奥に赤く塗られたドアがある。蛍光灯の白い光がやけに明るくて、そのドアの前に立つと光殺菌されているような気がしてくる。安普請のハニカム合板を開くと、旧いSF映画の未来の室内セットのようなピカピカした安っぽい内装になっている。ご丁寧に床は白と灰色の市松模様だ。色付き透明プラスチックのすだれがそこら中に下がって、光を乱反射している。
この中に入った私はさぞかしのっぺりとした顔をしているだろう。影の出ないように工夫されたこの部屋の照明に照らされると、誰も彼もがまるでプリクラの画像のように一様に白っぽくて血の気も特徴もない顔になってしまう。差し渡されたポールにずらりとハンガーに掛けられた洋服が並ぶ。柔らかいが容赦ない明るさに、彩色された鳥の羽の束やナイロンの羽衣のような薄布が向うを透けさせる。電子音とベースの合わさったシャラシャラした音が断続的に流れている中を、数人の人影がゆるゆると動いていた。
繁華街の真ん中だが、表には控えめな看板を出しているきりで何の店なのか入ってみるまで良く判らない。服飾販売店がこのような形態でやっていけるのか訝しくもなるが、逆にこれが営業方針であるらしい。ファッション誌に『隠れ家のような』というキャッチフレーズで頻々と紹介され、店長がスタイリストという肩書きを称し、季節ごとに選んだ洋服を一式コーディネートとして雑誌に掲載されるなど、もってまわった広告形態で上級者を自認する手合いに訴えかける戦略なのだそうだ。私も仕事で出入りしているが、実際に金払いの良い上客であるところをみると、そこそこ上手くいっているのだろう。それにあやかろうと、私も自分の会社の簡単なホームページに案件として掲載させてもらっている。
私は顔馴染みのスタッフにそこまできたからついでに寄ってみたと通り一遍の挨拶をし、店内を見渡した。白い光に幻惑される中、自分のダークスーツが店の雰囲気から妙に浮き上がっているのを自覚して居心地が悪くなる。いかにもファッションとは縁のなさそうなあの布袋さんのような男にとっては、この店に入るのは拷問に近かったことだろう。彼が得意げに見せてくれたのは、この店のショップカードだったのだ。取引先の見覚えのあるデザインに驚くと同時に、何故持ち逃げ野郎が私の会社に入ろうとしたのか腑に落ちたのだった。
私は目当てのスタッフを見つけて声をかけた。赤みがかったオレンジ色に染めた髪を長く伸ばし、目元を強調した化粧も可愛らしい娘である。彼女は私に気付くと、くるりと笑顔を見せた。
「あっ、どうもー。今日はお仕事ですかぁ?」
「ううん、ちょっと寄っただけ」
スタッフもモデル事務所に所属しているもののまだ芽が出ていないというような、見目麗しく店のイメージを高めるような人材をわざわざ選んで登用しているのだそうだ。店長という人物がもともとファッション業界と繋がりが深いらしく、そのコネの恩恵にあずかれるとすれば上昇志向のあるモデルの卵たちには願ってもないアルバイト先でもあるらしい。他に売れないモデルたちのアルバイト先としてよくあるのが、コンパニオンである。イベントごとの単発だが、単価は良い。生活費を稼ぐための恒常的な職場の他に、そうした仕事を掛け持ちで引き受ける子が多い。彼女もそんな中のひとりであった。
「ねぇ、突然なんだけどさ、うちの若いのが迷惑かけてない?」
私は単刀直入に訊いた。ギミックオタクの部屋からここへ直行しているのである。一日のうちに意外な展開が続きすぎて文字通り疲れてきていた。
彼女は困ったように可愛らしく眉毛を八の字にした。卵とはいえ、さすがプロである。同じ眉を寄せるのでも私が険しく眉間に縦皺を刻むのとは大違いだ。
「ええー、あのー、別に迷惑ってワケじゃあないんですけどー」
彼女は少し言いにくそうに語尾を引いた。重ねて促すと、内緒話をするように私の耳へ片手を寄せてきた。
「昨日、そのひとがサルーキの仔どもを持ってきたんですよ‥‥」
サルーキ?」
「すんごいキレイな犬なんですよ。細くて垂れ耳で、エジプト王家の犬って言われてて」
「犬?」
「わたしサルーキが大好きで、ちょっと前なんですけどそのことをブログに書いちゃったんです。いつかサルーキが飼えるようになりたいって」
「ああ。で、早合点した大馬鹿野郎がプレゼントしようとした、と」
彼女は哀しそうな困ったような表情でこくりと頷いた。奴はこの表情に泣かされたわけである。
「その犬、どうしたの?」
「さあ。だって貰えないじゃないですか。いきなり生き物をポンって渡されても困っちゃうし、うちのマンション、ペット禁止だし」
生き物を受け入れるには物心両面においてそれなりの準備が必要であろう。ちょっとした知り合いから贈られるには、確かに厄介なプレゼントである。
ペットショップでは返品を受け付けるのだろうか。しかし咄嗟に私の頭に浮かんだ疑問はそれだった。売上げの四十万円がそのサルーキとやらに化けたのは、ほぼ間違いない。巡り巡って私はその犬に泣かされたわけだ。