涙がちょちょ切れるぜ(6/8)

涙は何の味?

事務所に戻るころには日が落ちていた。
灰色のペンキの剥げかけた素気ない合板のドアを開くと、意外にも電気が点いている。息を止めて中を覗きこむと、持ち逃げ野郎がうつむき加減に机に坐っているではないか。
「‥‥あんた‥‥」
若者は勢いよくびくんと立ち上がったかと思うと、わなわなと震えて床にへたりこんだ。
「す‥‥すみません‥‥お、おれ‥‥」
そのまま床に額をこすりつけるように土下座を始めた。私は呆気にとられてそれを眺めていた。今にも泣き出さんばかりの若者の顔を見て、急に気分が白けた。わざわざ他人の名前を騙ってまで持ち逃げした人間のすることだろうか。なんだか違和感を覚える。私はつかつかと部屋を横切って簡易ソファにどっかりと坐ると、煙草を取り出した。
「で?」
ふぅっと煙を長く吐き出し、こちらを窺っている若者に顎をしゃくった。
「集金したお金はどうしたの」
「‥‥‥」
「説明くらいしなさいよ。まだ警察には行ってないけど、今ここで呼んでもいいのよ」
「‥‥はい‥‥」
蚊の鳴くような声である。
「い、犬を買いました‥‥」
「なんで?」
「か、彼女に、彼女が欲しいって言ってたから‥‥あの、彼女っていっても別につきあってるわけじゃなくて、でもふたりで出掛けたときに通りかかったペットショップでこの犬を見かけて、それで『かわいい』『欲しい』って彼女が言うから欲しいんだなぁと思って‥‥」
喋り始めたら勢いがついたのか、小学生が母親にその日一日あったことを報告するようなとりとめのない言葉が続いた。私は無言で先を促した。
「でも、昨日持って行ったら『それは無理』って言われて‥‥でも本当はすごく欲しそうだったんですよ。おれ、彼女の言うこと叶えてあげたくて」
「‥‥だから?」
おそらく私の額には青筋が浮いていたに違いない。
「で、でも彼女は悪くないんですよ! おれ、ただ役に立ちたくて‥‥」
どうも言っていることがトンチンカンである。私はため息をついた。もしかしてこいつは何が悪いか判ってないんじゃなかろうか。
誰が悪いのかといえば、使い込みをした若者自身以外にない。誰も相手の彼女を責めてもいない。ふたりのあいだにどんなやり取りがあったのか知る由もないし知りたくもないが、何があったにせよ自分のものではない金を使い込んでよいという法はないだろう。いまここでそんな我儘をきいてやりたかったなどと、恋情を縷々吐露されたからなんだというのだ。だからといって私に四十万円をなくした痛みを忘れろとでもいうのか。だいだいが会社の金を横領しておいてのこのこ戻ってくる神経が信じられなかった。こんな吹けば飛ぶような会社である、一度支払いが滞れば取り返しがつかないことになってもおかしくない。この商売を軌道に乗せるために私が何年もかけようがどれだけ苦労しようが、一瞬でふいにするかもしれない、それだけのことを、この馬鹿は逃げる覚悟も無くやったのだろうか。それほど自分が何をしたのか判っていないのだろうか。
「で、その犬はどうしたの」
私は彼の話の腰を折って尋問することにした。
「あ、あの、その犬の様子がおかしいんですよ」
若者は飛び起きて机の上に乗せたダンボールの傍に行った。まだ持っていたのか。私は半ば呆れ半ば苛つきながら立って一緒に箱を覗き込んだ。いやに小さい黒地に白い模様が入った仔犬が、むき出しのダンボールの中で震えていた。その片隅に吐瀉物のようなものがこびりついている。
「一応、コンビニでドックフード買ってきて食べさせてみたんですけど、吐いちゃって‥‥」
「何週間くらいなの」
「え? 昨日っすよ、買ってきたの」
「そうじゃなくて、この仔は生後週間なのよ」
「えっと‥‥」
「判らないの? ずいぶん小さいように見えるけど」
むくむくした仔犬というより頼りなく、こんなにぶるぶると震えていなくともまだ満足に走り回ることも出来ないような身体つきに見える。
「いや、ええと‥‥」
「あんたは何も判んないで生き物を買ってきたの?!」
「す、すみません」
とりあえず謝っとけという心持ちが透けて見えるような謝り方である。余計に腹が立つ。適当に流しておけば誰かが厭なことや面倒なことは肩代わりしてくれるとでも思っているのか。
「‥‥いや、そんなことはどうでもいいわ。どこで買ったの?」
扱うものが小さな生命といえどペットショップも商売である。鬼畜といわれようとも背に腹は替えられない。返品が可能かどうか掛け合ってみるだけは試してみようと思ったのである。聞けば購入先はすぐ近所に最近オープンしたやけに派手なペットショップである。私は若者の首根っこを捕まえ、犬のダンボールを抱えて事務所を出た。
店について返品したい旨を伝えると、しかし結果は見事な空振りであった。一度買われた商品は返品できないの一点張りである。詳しく突っ込むと、外で病気をもらっている可能性があるとか、ダンボールの内側に吐いた痕があることなどを盾に、いい加減にあしらわれたのである。
私は頭に血が上って知らぬ間に奥歯を噛み締めていた。興奮すると、奥歯と一緒に頬の内側も噛んでしまうのが癖だった。ダンボールを抱えて路上に放り出された途端に、ふっと鼻から息が洩れた。我慢しきれずに喉の奥が痙攣してくる。パタリと箱の上蓋に涙が落ちるのを他人事のように眺めた。こめかみが熱くなり口中に血の味がした。
「あ、あの‥‥」
若者がおろおろしているのに無性に腹がたち、私は拳をかためてその横面を殴りつけた。片腕に犬入りの箱を抱えていたためフックを振り切れなかったが、顎の骨に当たってガツンと音がした。指がじんと痺れるように傷む。その痛みが余計に怒りを掻き立てた。
「‥‥動物病院」
「は、はひ?」
「ケイタイくらい持ってんでしょ! 今からでも行ける動物病院を探しなさいよ!」
ヒステリーだろうがなんと言われようが、もうどうでもよかった。私は恥も外聞も捨てて宵の口の往来も憚らず金切り声をあげた。どうして私がこんなことで奔走しているのか判らない。しかし黙っていても誰もなんとかなどしてくれないのだ。このまま手をこまねいて犬が死んでも構わないと思えるくらいの強靭さは、私にはなかった。
私は未来の自分の寝覚めのために、その場で考えつく限りの出来るだけ最善と思われる行動をとった。