涙がちょちょ切れるぜ(7/8)

涙に対する貴方の見解を教えてください。

重いドア、こうした場所の重たい扉は樫の木で出来ていると思うことにしている。体重をかけて押し開くと、喧しい音楽とむっとした空気が洩れてくる。木を多用した内装には間接照明があたり、店内は薄暗い。ガヤガヤとした人いきれの中、私は空いているカウンター席を見つけて陣取った。
あのあとすぐに駆け込んだ獣医によると、犬はまだ生後二〜三週間程度だったらしい。そしてウスラトンカチの若者が離乳食もまだ早いくらいの仔犬に与えたものは、成犬用のウェットフードだったことが判明した。吐いて当たり前である。検査や診察で数万円がとんでいったが、その結果は良好で仔犬は腹を空かせている以外はすこぶる健康であった。聞いたところによると、この仔犬は末端価格で二十から三十万円もの値がつくらしい。しかしどれだけ高額商品であっても、返品を受け付けないペットショップは褒められたものではないと獣医は顔を曇らせた。そして言外にそんな無責任なところに返すより、一度手に入れた者が責任を持って飼うべきだと匂わせるのを忘れなかった。
彼が売上金を使い込んだのは本当にただ魔が差したことのようで、翌日、若者とその兄が連れ立って謝罪に現れた。両親は田舎で健在だという。若者の顔には私が殴った以外にも打撲の痕が生々しく残っていた。一筆入れてもらい、兄が保証人となって若者が使い込んだ分は分割で金利なしの借金として処理することにした。会社の運転資金は、犬の代金の残りと兄が一部立て替えてくれた分で、苦しいながらもなんとか遣り繰りできそうな算段がついた。ところでその兄というのが、件の町工場で私が掴みかかった男である。兄のほうは今回の仔細は事件になるまで知らなかったようだが、実のところその縁で若者と布袋さんのようなギミックオタクは知り合ったのだそうだ。
職住接近というのか、町工場で職人として働く兄とその弟はガレージの上にある三室のうちの一室に住んでいた。弟と布袋さんは近所のよしみでなんとなく行き会って立ち話をしているうちに、同じような趣味を持ち、同じようなイベントなどに参加していたことが判って、世代を超えて意気投合したのだそうだ。そういえばああ見えて、布袋さんはどこかの大学で工学系の研究室に在籍しているのだという。
更に彼らが参加したイベントでコンパニオンをしていたのが、ショップスタッフでもある例のモデルの卵であった。一目で完全に恋に落ちた若者は、それから熱烈なラブレターを何通も書いたのだそうだ。しかしモデル事務所宛にどんなにファンレターを送っても、ふたりの距離が近づくわけではない。そこで一計を案じたのが布袋だったらしい。ストーカーよろしく情報を集め、彼女が働いている店を突き止めてそこのショップカードを取りに直接現場へ潜入したのは、その作戦の一環だったわけだ。ちょうどそんな折りに私が出入りの業者であることを知り、ちょうどホームページで手伝いを募集していた私の会社に入って、裏から一気にお近づきになろうという計画を立てたのだそうだ。
しかし問題があった。出してしまったラブレターである。それには若者の実名が記してあった。ここで自意識過剰なスットコドッコイは彼女が自分の名前を覚えているかもしれないと恥ずかしがって煩悶し、また年上の友人に相談したらしい。あとは推して知るべしである。
事の顛末が見えたとき、あまりの馬鹿馬鹿しさに私は言葉を失った。
あれだけジタバタした私は一体なんだったのか。ひとをおちょくっているのか。
しばらくして、笑いがこみ上げてきた。世の中ってなんて馬鹿馬鹿しい。笑いすぎて涙まで出てきた。
思えば、涙はいつも次の扉を開けるものだった。限界を超したとき、泣いてストレスを発散すると天井までの間に隙間が空き、次へ進む余力ができる。その力を使ってなんとか少し前へ進むことができる。それを繰り返していままで山も谷もなんとか乗り越えてきたのだ。
私はビールを一口飲み、やれやれとため息をついた。
紆余曲折の末、犬は事務所で飼うことになった。手伝いが辞め、しけた個人事業に逆戻りした事務所にはふさわしくない高貴で高価なお犬様だが、他に引き取り手がなかったのだ。どこまでも貧乏籤を引いているような気がする。腹いせに犬を餌に例のモデルの卵をおびき寄せ、恋に狂った若者を悔しがらせてやろうと心に決めた。
「どうも、お待たせしました」
ひょっこりと布袋さんのような柔和な顔をみえた。事が一応の決着をみたので、叔母さんのほうには報告がてら菓子折りを持って再訪したのだが、この男はいうなれば若者と共謀していた面もあるのだ。悪気はなかったにせよ、私文書偽造というれっきとした犯罪行為を計画したのはこいつだ。こちらからお礼をいうのも迷惑をかけたと侘びをいれるのもおかしな話である。むしろ私のほうが謝罪されたいくらいだ。逡巡するうちに、なんとなく手打ちということで一度飲みに行くことになったのだった。
「今日はお誘い有難うございます」
男が言うのを、私はきょとんとして聞き返した。
「別に私が一方的に誘ったわけじゃありませんけど?」
「またまた、照れちゃって」
「は?」
「だってあなた、僕のこと気に入ったから誘ったんでしょ?」
私は何故かにやけている男の顔に盛大にビールを噴き掛けた。