DVD:善き人のためのソナタ(監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク)

善き人のためのソナタ スタンダード・エディション [DVD]

善き人のためのソナタ スタンダード・エディション [DVD]

「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」

観終わった後、しみじみと映画っていいものだなと思った。水野晴郎氏の決まり文句が身に沁みた。
東西冷戦中の東ドイツが舞台である。党の上層部は私利私欲を追求し、シュタージによる恐怖政治が横行していた。信頼しあっているはずの家族や恋人たちも、強引な逮捕や尋問によって密告者となってしまう歪んだ現実。
この狂った空気は仮借なかっただろうし、四角四面の規則に則って冷徹に横紙を破るのが身上であるシュタージのエージェントが、上役の人間的汚濁に辟易し、芸術家たちの人間的な活動に絆されていくなんて『いい話』の入る余地などあっただろうか。実際にはなかったかもしれない。エージェントだって宮仕えなのだ。八方塞がりの状況の中で、裏切りは身の破滅を招く。でも、それを描くのが映画というものだ。
『第三の男』だって『カサブランカ』だって『誰がために鐘は鳴る』だって、そんな話はあり得ない。だけど身も蓋もないしょっぱい現実のなかで、ロマンや救いを求めるのが虚構というものだ。そんな古き善き映画の系譜を受け継ぐ、正統派の『名画』だったと思う。
心に残る名シーンも数々ある。ゴルバチョフの功罪についてはいろんな意見もあるだろうが、あのゴルビーの顔がこんなに文句なしに頼もしく見えたことはいままでなかったよ。そうして地下に並べられた机から、ふらりと立ち上がる人々が逆光に浮かぶ。最後のエピソードも直球で、しかし歪んだ規律なんかよりこういう人間的なストレートさがどれだけ大事なことか。無理な体勢を続けて痺れきった心に、戒めを解かれ急に血が通い始めるような心地がする。じんわりと。
劇中で演奏されるピアノソナタは楽曲を提供したガブリエル・ヤレドが作曲したもの。

台詞で言及されるレーニンが話題にしたと謂うベートーヴェンピアノソナタ23番『熱情』は別物である。