読了:赤目四十八瀧心中未遂(車谷長吉)

赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂

生きて何になるのか、と主人公は自問し続ける。もとは大学まで出て広告代理店に勤めていたのに、厭世観に付き纏われて職を辞した男である。作中でも流れ着いた貧民街で「あんたはここで生きられるお人やない」などと女たちに看破されるように、育ちが良いというのかどこか堕ちきれない甘さがある。それはぬるいとかダメだという意味もあるが、人が生来の性質として持つスイートな甘さでもある。
以下は畳んでおくので、未読の方はご注意を。




心中への道行きで、アヤちゃんと激しい情欲にふける場面が出てくる。ここでそんなものかなぁと不思議な気分になった。生命の危機を感じると、本能的に種を残そうするのか情欲が湧くという話は聞いたことがある。叩き潰されたゴキブリが最後の力を振り絞って産卵するのと同じで、人間も浅ましい動物でありそれが本来の姿だしょせん糞袋なんだと、いわゆる「お綺麗なもの」の対極においてなされる主張も承知している。しかしどうもここらへんが腑に落ちない。もしそうなら繊細なようでいてその実、丸太のように鈍い男だなという気がする。
嘘か本当か空襲の最中に「盛り上がった」という小咄も漏れ聞いたことがあるが、正直に言うとそちらのほうはなんとなく納得できるのだ。うわーっと興奮状態になって現実感が喪失して違う方向に昂揚することもありそう。空襲に遭ったことはないので、実際はそんなもんじゃないのかもしれないが。しかし爆弾がまさに音を立てて降ってくる臨場感と、何かに追い詰められるときの胃の腑がキュッと萎み背中の毛がそそけ立つような焦りとは質が違うのではないかな。そんなときにそんな気になるのか。むしろ汚れきれない小心者ならば金玉が恥骨の裏で縮み上がるんじゃないか。素朴に不思議だ。
アヤちゃんという女は借金の形に苦界に沈められようとしているところである。苦界というのはご存知の通り女が性的な商品となる場所である。行く先の地獄、死んでも逃げたいところでさせられることと、同じことをしたがるか。いや、したくなくともそれしか手法を知らないというのはあるかもしれない。
そして未遂の題名の通り死にそびれてどこかへ帰る途中、アヤちゃんは急に男を置いて電車を降りてしまう。共にいればただでは済まないから、自分はこのまま身売りされて行くと言い残して消える。それが女のギリギリの優しさだという。駄目な男が駄目な所以である。
な に が ギ リ ギ リ の 優 し さ だ 。


アヤちゃんは「男の腐れ金玉が勝手に歌いだす」ほどの超絶美人だが、差別される出自で学もないというところで男の優越感は守られ、最初から他人のものであったのが口説かなくとも自分から進んで身を投げ出してくれて、逃避行の甘さだけを残し負の部分は一身に引き受けて消えてくれる。男に残るのは感傷的な思い出だけ。なんとも好都合な話である。ギリギリどころか女神様菩薩様ではないか。感謝の念が足らん。だから甘ちゃんの駄目男だというのだ。
こう、無性に腹が立つのは、そこに己の愚かしさを見てしまうからである。浮ついた消費社会を斜めから見て嫌うだけ。自分は無能だぼんくらだとアウトローを気取ることそのものが格好つけている。この作品が好きか嫌いかと聞かれたら、間違いなく嫌いだ。ロリータのハンバート・ハンバートを読むときと同じ、痛いところをグリグリと抉られて気分がいいはずがない。そんな非常な力を持った傑作である。