戦い敗れて山河あり

風邪をひいたらしい。らしいというのは病院にも行っていないので、診断はされていないからである。ほぼ十中八九風邪だ。もしかしたらインフルエンザというセンも残っているが、予防接種しているし熱も出ないので確認していない。
一昨日の朝から腹調子が悪く、内臓がピキピキしていた。しかしそれくらいは大したことではない。よくあることだ。問題は社屋の受水槽清掃の関係で、午前中に2時間ほど断水するということだった。午前9時から11時まで、トイレが使えない。でも腹は痛い。我慢するとますます切羽詰る。
そこで時間配分を考えることにした。おそらくこの腹調子だと午前の間にトイレに行きたくなる回数は3回くらい。早い時間に2度行ってしまえば、少し落ち着いて昼近くまでもたせられるだろう。
受水槽の清掃の場合、たいてい断水予告の時間は前後に余裕を持たせている。つまりビッチリ2時間水が出ないわけではないのだ。そして幸いなことに、社屋のトイレは水道管直結のフラッシュバルブではなく水洗タンクのついたタイプである。給水が止まっていてもタンクに溜まっている分があるので1回は流せるということだ。女子社員が少ないためフロアの女子便所を使うのは基本的に私だけ。古い体質で男女雇用不均等な業界であることに、初めて利点を見出した瞬間である。
しかし不随意な複雑系である人体の活動について、意識的にコントロールするのはかなり難しい。夏目漱石は横たわったまま胸に手を当てて心臓の鼓動を感じているうちに、ふと操作できるのではないかと思い立ち、鼓動がゆっくりになるよう意識を向けてみたら本当にゆっくりになった気がしてこのまま止めることもできるんじゃないかと怖くなってやめたという話があるけども、そんなものは安静にして息を整えれば脈拍は遅くなるのが道理というものである。逆にそういう意味ではある程度コントロールできるともいえる。しかし平静の脈拍ならともかく、腹調子の度し難さは如何ともしがたい。緊張して落ち着こうとすればするほどここを先途とばかりに動き出す。出物腫れ物ところ嫌わずというが、こっちの出物はときも構ってくれない。
まずは9時前に一度目を済ませ、席に戻る。まだ時間前なので通常通りに水は出て、タンクに次回分が溜まる音がする。次の波が来たのが9時30分。予測ではギリだがまだ間に合いそうだ。早めに済ませてレバーをひねると、まだ水音がする。よし。これで次回分は確保した。
それからは図面を描くのにできるだけ集中し、腹の存在を忘れるようにしつつ、ちょくちょく時計を見上げる。普段、サボっているときは瞬く間にすぎるのに、こういうときは時間が経つのが遅い。額に脂汗を浮かべながら、必死に図面を描く。思いのほか仕事が進んだのは、怪我の功名というべきか。風船がだんだん膨らみ、表面が薄くピンと張り詰めてくる。まだだ、もうちょっと頑張ってみよう‥‥そう、平常心を保つのだ。私は自分の腹に言い聞かせ、そ知らぬ顔で仕事を続けた。
しかし限界はやってくる。とはいえ次回分の水は確保してあるのだ。そう焦ることもない。引っ張るだけ引っ張り、10時30分で余裕を持って自分を解放することにしたのだった。レバーをひねると水洗の水は落ちてくるが、やはりタンクへの給水音はしない。そうこうするうちにそろそろ断水も終了する頃合いである。乗り切った。私は晴れやかな気分で手を洗おうとした。ところがトイレにばかり気を取られていたが、断水ということは当然、手洗器の水も出ないのである。思わぬ落とし穴に呆然としたそのとき、きゅるる、と音がしてぶはっと蛇口から水が迸り出た。同時に空になっていた水洗タンクへも勢いよく水音が落ちる。
ぃよしっ! 私は小さくガッツポーズをして、トイレをあとにしたのだった。


そうして危機を乗り越えたつもりだった。
そのまま夕方まで図面を描き続け、だいたい目処が立ったところで、風邪で調子が悪いので早めに帰ることにした。頭がぼんやりする。同僚に車で送ってもらい、うどんを啜ってその日は寝た。次の日はだるくて起きられなかったので病欠。明けて今日、若干のだるさを引きずりつつ出勤し、一昨日の続きをやろうと図面ファイルを立ち上げたのである。
なにかおかしい。図面がスカスカである。よく見ると、一昨日あれだけ集中して描きあげたはずのものが、前の状態に戻ってしまっている。
ということは、だ。私はのろのろと考えた。アレか、保存しないで終了したってことか。しかもそれに気づかなかったと。なんてこったい。確かに私は失敗も多いが、ここまでの大ポカはなかなかない。まさかの1日分かよ。自分ではそうでもないつもりだったが、体調不良でかなりボーっとしていたらしい。
いま、私はパソコンの前に座って真っ白に燃え尽きている。