相変わらず書くことの景気が悪い

梅雨寒の空、春のように細かい雨が降っている。風に乗り舞う粒々が傘の内側に入ってくる。
涼しいのは嫌いじゃない。暑いよりはいい。手首まですっぽり覆う袖の長い柔らかい服を着て、コーヒーを入れたサーモカップからたちのぼる香りを嗅ぎながらゆっくりと画面に向かう。
でもやっているのは急ぎの案件だけどな。デスクに座ったとたん、馬手にマウス、弓手にキーボードで何も考えず機械化する。


何が問題なのかの、共通認識がないというのも孤独なものである。
話しても話しても伝わらないというのがこれほど堪えるものだということを、すっかり忘れていた。しかし他人である以上仕方ないのが現実である。拈華微笑で伝わらなければ判りやすい動機や理由に落とし込んでそういうことにしてしまうしかない。まあいい。大したことではない。伝わったと思っても、いずれにせよそれは幸福な勘違いなのだ。
ひとりで真空に浮かんでいるような個の孤独をまざまざと認識し、曝露の痛みを引き受ける。日々を過ごす通奏低音である。侘び寂びは求めるものが多い甘ったれほどハマる。


ネット上の呟きを他人に向けたメッセージだと思ったことは、実はあまりないかもしれない。もちろん人目に触れるものという認識はある。しかし、誰かに向けて言葉を送っているという意識はほとんどない。ましてや明確に相手を思い浮かべて書いたことは、何年かここにいる間に数えるくらいしかない。
それよりはネット上の任意の地点にアンカーを打ち込み、住所を確保しているというほうに近いか。はてなの前に使っていたCGIもその目的だったし、それらを含めるとリアルとネットで二重に生活を営むようになってから数年が経つ。
場所の特性から生存を証明するためには微弱ながらも信号を送り続けなければならない。そのための日記でもある。内容はなんでもいい。
ゆるゆると日常生活を生きるように、その時々の雑多なことをただ垂れ流す。たまに判り難いというか読むと尻の据わりが悪くなるというようなことをいわれることがあるが、よく考えるとここに書くことが人に伝わるかどうかは、若干度外視している部分もあるのかもしれない。それで上記のようなことになるわけだ。
私はここにいる。
したいと思った人がいつでもここからコミットできるように、定点に浮かんでいる。