冗談ですから

ひとはどうして冗談を冗談として認識できるのか。
冗談というのはつまり『嘘』であると言い切ってしまうのは語弊があるかもしれないが、あながち間違いでもない気がする。
つぶさに見ると冗談は修辞表現のオンパレードである。種類はいろいろあるけども、比喩は一見でも判りやすいのに比べて、反語は理解するのに一定の情報量と判断力が必要になる。うまい見立ては叙事と見分けがつかないこともある。


話は飛ぶが、国語でよく『この文章を書いた人は何が言いたいのか』という設問がある。
これの意味が判らないという批判はよく聞かれる。哲学を気取れば「そんなもの本人以外には判りようがない、いや、本人だって判らないかもしれない」とかなんとか小手先で詭弁を弄することはできるわけだ。
この批判の内容には意味がないということは、既に賢諸兄姉にはお判りだろう。私が愚考するにこれは自虐を二重にすることでアイロニーとなっており、『全体を総合的に判断出来るか否か』を問う設問に対し、賢いフリをしつつ『この問題の意図するところは何か』すら判らないということを表現した諧謔なんである。こうした捨て身のギャグへの正しい反応は、うまいこと修辞を使いやがったと敬意をこめて笑うことであろう。
冗談というのは、特に受け取り側では相手を見立てるところから始まると、私は思っている。言葉を発しているひとがどんな背景をもっているのか、多くの場合はよく知らない。先の諧謔も話者は単細胞な勉強嫌いの学生だと断じてしまえば、単なる頭の悪い与太話で面白くもなんともない。相手が判ってやっていると見立てて初めて冗談が冗談として機能するのだ。
ボケ潰しというのは、見立ての失敗から起きることが多い。


冗談めかして深刻なことを話す場合、話者の意図はどこにあるのか。それは話の全体を通して見なければ判断し難いものではある。冗談にするしかないような苦しい状況の場合もあれば、終わったことなのでシャレのめしてネタにしているだけということも考えられる。事実は小説より奇なりという具合に、本当のことなのに嘘みたいな話もある。
しかし『冗談めかす』というのは、冗談を言っているのとは違う。嘘をついているのではなく、嘘っぽく本当のことを話しているということである。さらに虚実織り交ぜてわざとどこからどこまでが嘘なのか判らなくすれば、どこかの元首相のように言語は明瞭でも意味不明の漠然とした話になっていく。
冗談が冗談だと通じるのは、ひとが嘘を判別できるからなのだろう。話を聞き、ダウトを探す。一般論や経験則を総動員して話の根幹を見抜き、比喩や誇張をかいくぐって黙説に辿り着かねば話というのは見えるものではない。ましてや最後まで読まずに意見するなど、相手を見縊りすぎにも程がある。
しかしこうしたことはひとえに聞く側の資質にかかっているので、話者の側でくどくどいっても意味はない。意味はないが、話が通じてるかどうかはまた別の問題である。言語というのは共通幻想だ。共通認識がなければ通じず、そしてそれは後天的に学ぶものなのである。
最後に謝罪しておくと、この記事もほぼ冗談であるからして、真面目に受け取られた方には申し訳ない。