バカにつける薬

瞼が腫れている。うちの田舎ではものもらいの事を「バカ」という。眼科に行けばバカにつける薬が貰えるわけである。あまつさえその薬をつければバカが治るのである。画期的だ。
SNSでぶつぶつ言っていて気が付いたのだが、どうも私は基本的に頭がよくない。本を読んでいて面白いと感じる最たるものは『ペドロ・パラモ』を読んだ時のような、よく判んないけど漠然となんか凄いなどという、非常に頭の悪い感想を抱くことなのである。そういう感覚を味わうために読んでいる。だから『インド夜想曲』や『月山』、『百年の孤独』など、訳の判らない本が好きである。判らないからこそ面白いのかもしれない。一方で解説書や評論や批評にはあまり食指が動かない。バシッと判りたいわけではないらしい。むしろ煙に巻かれたい。そこで見せられる概念や説明し難い情緒や毒を含んだ冗句にただ遊びたい。
こういう場合に困るのが、その本を読んでいない人にはその良さをまったく説明のしようがないということである。漠然とした感動を言語化できる能力があればいいのだが、説明し難い部分が好きだというのにそれは無理な相談である。かくて作品名をずらずら挙げて凄い凄いと語彙貧困に陥るしかない。そういうものだと思っているので、書評サイトの「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」や松岡正剛の「千夜千冊」は委細構わず存在しているだけで有難くも尊いといえる。
本体が飲み込めなかったときには何がしか期待して巻末の解説を紐解いたりもするのだが、それでもピンとくるときとこないときがある。ただでさえ貧乏暇なしで教養を深める生活的余裕もそうそうないし、古典名作だって読んでいないものが多く、ましてや引き合いに出される作品を総ナメしているわけでもない。前提になる思想や示される話題に人間関係の裏があることを把握していないと判らない高尚で文化的らしい話題では、何を言っているのかさっぱり‥‥なこともままある。現在の日本文化を理解していないともいえるのかもしれない。趣味を共有したくたってこちらからは言語化できず、向こうの言っていることはちんぷんかんぷんでお話にならないのである。こういう「そのときだけ下地が必要になった場合」は、プラグインを脳みそにインストールできればいいのにな、と思う。もしくはつければたちまちたちまち把握できるバカ薬とか。
まあ、しょうがないんだろうな。ここらへんがいまのところ私の限界である。個人的な楽しみに淫し好きなように放言するだけで、それ以上は諦めるしかあるまい。