そういえばメーテルは子どもを作れるんだろうか

妊娠したら生むかなぁ。
一度妊娠してしまえばこちらがある意思を持ってアクションを起こさなければ、胎児は腹の中でノンストップで成長し順当にいけば月が満ちて生まれてくることになる。流産や何かで残念ながら生まれられない確率も意外と高いが、将来設計を考える場合にダメだったときのことはあまり考えない。堕胎しなければ、ひとりか、もしかしたらそれ以上増える。
妊娠期間の最後のほうと出産後の最初のうちはどう頑張っても働けない。出産費用は後で戻ってくるにしても、一度は払わなくてはならない。
生まれたら最後、やっぱやめる、なかったことにしてくれというわけにはいかない。基本的には親を休むことも出来ない。
それは想像以上に大変なことのように思える。だからこそ出産を機に百八十度人生観が変わったり「この子を守るために自分は生まれてきた」と鶏なのか玉子なのかよく判らない強烈な感動を呼び起こすことがあるんだろう。ここらへんの個人差は大きいようだが、困難を乗り越えるためには強い使命感や肯定的な感情で勢いをつけるというのは有効だし、そう考えるとやっぱり種の保存というのは至れり尽くせりで本能にプログラムされている最優先事項なんだと思う。
機械みたいだって? いや、コレは生命の神秘というべきことではないかね。どちらにしても表現の問題がどうであろうと中身は変わらないのだ。身体を機械的に捉えようとする哲学の一派もあったような。そういうことだ。


もっとも、件の女性を機械に喩えた議員の話は、どうもアプローチが違う気はする。
国政を担うとか大局的にモノを見るとか、そういう考え方をした場合にヒトやモノを駒として扱う感覚というのはあるのだと思う。昔の武将が戦の際に兵士ひとりひとりを過去や家族や思想のある人間としてではなく、こっちに何百人、あっちから何千人というふうに十束一絡げで数字として見るような感じだ。
といっても今の時代だから命のやり取りをしている場面ではないし、例の議員さんが一切の感傷を殺して冷徹な判断を下さねばならないような状況でもない。
ヒトをモノ扱いしてこれを是とする雰囲気は、そもそもなかったわけだ。
この話を知ったとき、だけどホラ、議員さんってちょっと普通のヒトとは違う感覚でモノゴトを見なくちゃいけないのよね、こんな見方、さすがでしょ、という自己顕示欲のようなものをうっすらと感じた気がした。もちろん気のせいだろうが。
それに仮定の与太話を続けるなら、マクロにひいた目線で見ることに慣れた人が、急にミクロのものに焦点を切り替えられるかというと、大抵の人はそんなに器用じゃないだろう。国政に携わる人の中にはそんな超人的なバランス感覚を持つ人物にもいて欲しいものだが、議員全員にそれを求めるのは酷というものだろう。
だが尻尾を出してしまったのはご愁傷様だった。ここぞとばかりに鵜にも鷹にもたかられて、醜い伏魔殿もかくやである。
コレは公には言わないほうが無難、というのは知らなかったわけではないだろうと思いたいが、目先の変わった喩えがウケるかもしれないし、ちょっと感心してもらえるかもしれないという誘惑に勝てなかったのか。だとすればまさしく小学生にも判る身から出た錆である。


今のところまったくこれっぽっちの兆候もないものの、もし妊娠したらというこれも仮定で想像してみたが、あまり現実味がないので妄想に流れてしまった。