エモいってなあに?

エモい、とはなんぞや、である。
『エモい』を使ってなされる主張に反論したいわけでも、用法に疑問を呈する意図でもないので、誤解のなきよう。マジでこの言葉がどういう状態を表しているのか、何を内包しているのか感覚でピンとこなかったので、仕方なく頭で考えてみただけである。


もっともネットで流行る言葉のことごとくが良く判らない言葉なんだが、それでも何度も目にしているうちに前後の文章から類推して大体の意は汲み取れるものだ。
だが『エモい』は腑に落ちない。何を言わんとしているのか曖昧模糊として掴めない。
語源は英語のemotinalらしい。直訳すれば『情動的な』『主情的な』という意味になる。日本語の類語では『感傷的な』という便利な使い古された、ということは通じやすい言葉がある。
しかし感傷的といわずわざわざ英語を日本語化して『エモい』という表現を使うからには、なにか違うニュアンスがあるのであろう。私が掴めなかったのは、そこんところである。
主に参考にしたのはこちらの文章。断っておくが、こちらを書かれた佐藤亜紀さんには何も含むところはないし、実を言うと彼女の小説は未読である。しかしこれでとても興味をそそられたので今度読んでみようと思う。誰だったか失念してしまったが*1、どこかで絶賛されていたかすかな記憶もあるし、期待大である。

エモーショナルな刺激だけでは、感動としては全く不足です。エモーショナルな刺激を用いて造り上げられた形が与えるものが感動なので、そこのところを勘違いしている読み手が多すぎないか、という危惧からあえてワーストとして挙げた次第。(中略)エモい代物を求める方、なおかつ、世界が異様なくらいちまちまと狭苦しく、そのちまちました迷路の中を、作者によって鼠並みの知能しか与えられなかった登場人物が右往左往して可哀想な目に遭う話でも平気な方にはもちろん大いにお勧めできます。ただし、そういうのを読んでべーべー泣くことを、感動! とか言われると、実際に書く側としては強烈な脱力感に襲われる訳ですよ――何だお前ら結局ポルノが読みたいだけか?

http://tamanoir.air-nifty.com/monk/

最後の一文に脱帽。姐さん、惚れそうです。
上の文章で話題になっているイシグロカズオさんの『私を離さないで』は私も読んだが、これは好意的に読ませていただいた。そのときの短い感想はこちら
しかし問題は批評の内容ではない。『エモい』である。
どうやら否定的に使われているらしい。
情動的というなら、小説というものは凡て情動的なのであって、文学から情動を取り去ったら無味乾燥な業務報告しか残らない。
現実に置き換えてみても、淡々と日常をこなしつつやっぱり人はどこかで楽しみや感動を求めるわけで、余暇には旅行したり趣味を楽しんだりする。結婚したり子どもを育てたりするのだって理性で行っているわけじゃないし、そこには心が求めるものを満足させる、感情的に嬉しい楽しいことを求めてやっているんじゃないか。とすれば人生のほとんどは情動だということになる。情動なくして人生なし。


だとすれば、主情的であるといいたいのか。
私は近年では主情的分野の代表格であろうセカチュウを読んでいないのだが、何故食指が動かないのかといえば、これは個人的な好みの問題で、ズバリひねりがなくて面白くなさそうだからである。読めば多分、涙の一粒ぐらいは出てくると思う。東京タワーを読んだときにも三粒ぐらいは出た。しかし抱っこちゃん人形にミルク(と称した水道水)を飲ませると下からおしっこ(同)が出てくるような、涙スイッチを押されて流す涙には内実がない。コンタクトレンズを嵌めた目にゴミが入ったら涙が出るのと同じようなもんで、流す本人にはカタルシスも何もないのである。いや痛みがない分、コンタクト以下かもしれない。
これ以上は好きか嫌いかという話になってくるので強弁しても虚しいだけだが、私にとっては、空気の匂いや温度、食べ物の味、殴られたら痛みを想像できるし移動したなら空間の距離感まで伝わってくるような泥臭いほどの感触を伝えてくるのが最高の小説である。そこでは人の感情は構成要素の一つとして扱われ、嬉しいとか愛しているとかが何より一番大事ッ!という扱いはなされない。動かしがたい自然や多くの人を巻き込んだ状況などが複雑に絡み合い、個人の苦しみ哀しみを引きずりながら物事が進んでいく。もちろん人の想いが大きな原動力となることもあるし、互いに作用しあってひとつの大きな模様を作り上げるのだ。ああ、うっとり。
安直なお涙頂戴ものには、そういう作用し合う部分がない。だから興味深くない。
佐藤さんのイシグロ評に心の底から肯くことは出来ないのだけど、内容はともかくなんとなくそういうことを言っているのかな、と思うのだがどうだろう。私は彼女の文章を読み取れているのだろうか。


しかしここで気になるのは、何故「感傷的に過ぎる」とか「情に流されっぱなし」と言わずに「エモい」という造語を作ってまであてたのか、というところだ。
単なる気分、とか、軽く嘲笑している語感、でもいいんだが、なんか違う気がする。
対象はちゃらっと笑って切り捨てられるような、どうでもいい有象無象ではないんだろう。黙殺するにはちょっと手強いような。
単なるお涙頂戴から一周廻って同じ処に行き着いたとでもいうのか、今までの「べちゃべちゃした面白味のない話」から少し進化した、「一丁前にクールを気取ってるけど内容は前と変らない」「気取ってる分だけ始末に悪い」という感じなのかな。穿ち過ぎか?


うぅん、なんだかよく判らなくなってきた。
強引にまとめると、
・お手軽に雰囲気作りして感傷をそそり、それがどうしたかというと、どうもしないもの=エモい
という理解でいいのか? ご意見・反論求む。

*1:松岡正剛さんだったかな?