雨の木曜日

雨の日はどうしてこんなに眠るのにむいているのだろう。しとしと降っていると必ず二度寝する。霞がかかっているせいか、なんとなく現実が遠く感じる。不満も慶びも打ち捨てて、このまま浮世から離れてしまいたくなる。牛車に乗ってどこか山奥にがたごとと分け入りたい。
しかし牛車が通れるということは、道があるということだよな、とふと思う。古典などで人里離れた庵という記述がよく出てくるが、あれはどの程度人の往来があるのだろう。舗装も石畳もない時代のこと、ひと雨降ったら草ぼうぼうである。ひと月もしたら獣道なんか埋もれてしまいそうなものではないか。頻繁に人通りがあるなら踏み固められることもあるかもしれないが、そうでなければ定期的に下生えぐらいは刈らねば維持できないだろう。もしくは本当に鹿や狸の通り道を利用しているのだったら、人んちに通じているのもおかしな話だし、たまにルートが変わって目的の場所に辿り着けなくなったりしそうだ。
落ちぶれた貴族が娘を連れて山奥に隠棲したりしてるのは、どんな生活をしているのだろう。特に食べ物は自給自足なのか。人も通わぬ山道をわざわざ行商が売りにくるんだろうか。
下男下女を抱えているとしても、いやむしろそれだけに口は増えるのだし、家庭菜園や狩猟採集だけで賄えるもんだろうか。だいたい貴族というのは社会全体からみて人口比率が低いから養えるんである。うろ覚えだがだいたい1〜2%くらいが適正で、10%を越えるとかなり大変というくらいだった気がする。するってーと、のんびりした父娘ふたりを養うのに下男下女はかなりの大所帯で必要だし、それじゃとても「寂しい生活」とはいえない。それどころかその頭数だけで村を形成できる。
はたして少ない人数で団栗拾って喰ってるのか。罠を仕掛けて兎でも獲ってるのか。木の実をすりつぶして食べられるように加工したり、野生動物を〆て捌いたり、そういう物凄く手間のかかることをせっせとやってるのだろうか。
本当にそんなところに住んでたら、ご主人様もご令嬢も背に腹は代えられまい。一緒になって畑仕事から水汲み生活物資の製作やなにかをやらなきゃ間に合わなさそうだ。生活に追われて真っ黒に日焼けしてたり指先が割れたりするだろうし、着衣も汚れる乱れるで簡便なものにならざるを得ない。雅に琴を爪弾いたり敬虔な仏教徒なんてポーズをつけていられるのだろうか。
そんな見た目にかまってられない娘を、世間知らずな都のお坊ちゃんが見初めるとは思えない。思えないがしかしそれでは話が進まないから、百歩譲って見初めるとしよう。恋は理屈じゃないしな。
モノがないのが可哀想とかいってそこんちの娘目当ての男が物資を援助したりするとして、その品目の実際はキレイなおべべどころの騒ぎじゃない気がする。そんな能天気なものより、牛五頭とか草を刈るのによく切れる鎌をくれたほうが有難かったりして。それとも作るのが大変な生活必需品は近所の農家から買ったりしてるのか。
やっぱり人里離れてないじゃん。
‥‥‥。
源氏物語伊勢物語あたりを読んでいて、このようなことが頭の中に去来する私は臍曲がりだろうか。