バスタオルの歌

10年くらい前に住宅事情というか自作の棚の都合で、風呂上りにバスタオルではなくフェイスタオルで身体を拭くようになった。その前は当たり前のようにバスタオルを使っていたし、実家でももちろん子供の頃から風呂上りにはバスタオルであった。小さなフェイスタオルでも、一応はなんとかなる。ぐっしょり濡れた洗い髪まで拭けば絞れるほど水分を含んでしまうものの、見方を変えればちょうど1回分全身の水分をぬぐえる面積ともいえる絶妙な大きさである。
いつしかそれに馴れ、引越して事情が変わってからもなんとなくフェイスタオルを使い続けていた。むしろそのことに疑念を持つことすら失念していた。旅の空に馴れるとそれこそが人生となるように、10年間、なんの不思議もなく最小限の荷物で全てを間に合わせるキャンプ生活をしていたようなものである。
それがついこの前、そうGWの直前あたりに、急に『バスタオルを使ってもいいんじゃないか』という天啓が降りてきたんである。あれ、私は何故フェイスタオルを使っているのだろう。自分の稼ぎで家賃も生活費も賄っているのに、入浴後のさっぱりした気持ちを豪快に受止めてくれる大きなバスタオルにぶつけず、どうして小さなタオルに甘んじていなければならないのか。青天の霹靂に撃たれたかのような衝撃である。
バスタオル。
それは素敵にふわふわと身体を包み込むもの。
バスタオル。
それはお昼寝のお腹を冷やさないように掛けるもの。
バスタオル。
それは幸せの魔法がかかった柔らかなもの。
かくして、ついにバスタオルを新調したのである。それをいま先刻体験してみた。10年ごしのバスタオルである。
すごいぞ、バスタオル。まだ拭ける部分が残っているのに、もう拭くべき部分は残っていない!