読了:『月と六ペンス』サマセット・モーム

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

平凡な中年の株屋ストリックランドは、妻子を捨ててパリへ出、芸術的創造欲のために友人の愛妻を奪ったあげく、女を自殺させ、タヒチに逃れる。ここで彼は土地の女と同棲し、宿病と戦いながら人間の魂を根底からゆすぶる壮麗な大壁画を完成したのち、火を放つ。ゴーギャンの伝記に暗示を得て、芸術にとりつかれた天才の苦悩を描き、人間の通俗性の奥にある不可解性を追究した力作。

語り手に率直な人間を選び、装飾を廃したポキポキとした読み口がどこかハードボイルド小説のようだった。モーム諜報機関の人間だったことと関係があるのだろうか。語り手である「私」は、知ったかぶりの美術評論家のように画家・ストリックランドの人間性について判ったふりなどせず、実際に相手に会って話したこと、事実、事象だけをそのまま並べ、不可解な人間は不可解なままにどういう道筋を辿ったのか浮き彫りにしていく。
ゴーギャンの伝記をヒントに考え付いた小説なのだという。主人公のストリックランドは突然職を辞し妻子を捨て、世俗的な人との絆や金のことどころか自分の身体のことすら省みずに絵を描くことだけにひたすら突き動かされ、後半ではヨーロッパの生活を捨てタヒチに移り住む。
ところでこの南の島への変遷と絵を描くために最適化した生き方でもって、田中一村は日本のゴーギャンなどといわれることがあるが、一村の空白を生かした日本画に対しゴーギャンの全面を塗り潰した絵はラテンの悪夢のようだ。しかしまるきり違って見えるふたりの絵も、一歩間違うとカラフルな南国のざわざわした生命力に弾け飛びそうなところは似ているのかもしれない。
社会規範や家庭のしがらみがいまよりも強かった時代のお話である。何か崇高なものを求めるあまり、絆を結ぶことやしがらみの箍をすべて捨て去るというのも、いまとなってはさして抵抗のある話でもない。周りに『オタク』と呼ばれるひとがいれば尚更身近に感じるし、出来れば自分もそんな生活をしてみたいくらいだ。しかし実際に仕事を辞めて食扶持の予定も計画もなくふらりと南の島に移住できるかというと、そこまで後先考えないほどに突き動かされる衝動など自分の中にはないよなぁ‥‥このへんが天才と凡人の差なのだろうな。
タイトルの「月」は崇高なもの、「六ペンス」は世俗的なものの象徴らしい。作中に「私」とストリックランドの共通の友人として売れっ子だが凡庸な画家が出てくる。この男がストリックランドには侮蔑をもって報いられながら、「いいひと」であることをやめられない。月を求めるストリックランドに対し、善人ゆえに六ペンスに汲々とする姿が晒されるのがなんとも残酷である。挙句に最愛の妻を寝取られるのだが、これがただ寝取られるだけでなく妻は生涯の愛をストリックランドに捧げ、その愛のために自殺してしまうのだ。理不尽だが女は尻尾を振って懐いてくるまともな男より、変人であっても一本芯の通った男のほうに惹かれるというのはよく判る。良い悪いは別として、女が見る男らしさは背中、つまり生き方であるというのもまたひとつの事実だよな。
モデルのゴーギャンは主人公のチャールズ・ストリックランドほどキレイに解脱した人生ではなかったようだ。