失楽園 上・下(ミルトン)

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

失楽園 下 (岩波文庫 赤 206-3)

失楽園 下 (岩波文庫 赤 206-3)

やっと読み終わった。前半の殊に戦いの場面では天使が山を投げたりしていて面白かったのだが、後半のアダムとイブの箇所にさしかかるとこれがもうナチュラルに男尊女卑で、女は男の言うことを黙って聞いていればいい、何故ならバカだから、というようなことを延々読まされるのはなかなかにキツいものがあった。その部分で躓いて読み進めるのが遅れたもので、読み終わった今では前半の面白かった部分は記憶の彼方に飛んでしまっている。それをいったら男は神の言うことに唯々諾々と頭を垂れて従っていれば良い、しかも自発的に、という話でもあるんだがそれは宗教的な態度というもので、女の扱いは生まれながらにしてそれ以下。原罪のくだりの骨子は読む前から知っているし、古い時代のことだからと判っちゃいるけどここまで美辞麗句をもって強調されると「はぁ、そうっすか(鼻ほじ)」という感じであった。これが他の設定ならとある男と女の話で済むのだが、なんたって原初の男女である。どうしてもそれぞれ男女の性質を代表しているように読めてしまうのが始末が悪い。
しかし原罪というものの捉え方においてすら往生際悪く「僕はもともと悪くないんですよ、むしろ僕は自己犠牲の精神でね」なんてエモーショナルな展開になってしまうのが、そりゃ男にとってはキモチイイだろうけど、どんだけ肝が据わっていないのか残念だななどと根源的なところに疑義を差し挟みたくなってくる。そんな残念な気持ちになったまま読み進めていると、寝取られ男が惚れた弱みで再構築を目指すとこういう心理になるんだなとしか思えない。こうなってくると有難い宗教的なアレもコレもぐだぐだの自己欺瞞に見えてくる。不完全な人間同士の間では赦しが尊いというのは、世俗的な意味では理解しているけどもそれはそれである。
なんとなく思い出したのが中世あたりのキリスト教圏では、男から見た女というのはビッチか聖女の2通りしかなかったとかいう、ホントかどうかよく判らない話だった。奉るか貶めるかの2択。難儀なことである。この『失楽園』にそのまんま描かれているように美しい男は罪深い女によって堕落させられるという思想もあったらしいが、どれもこれも女自身には関係のないところで、あくまで男が性として女を求めるあまり勝手にひとり相撲してるだけなのと違うのか。無闇矢鱈と崇拝してみたり、思い通りにならないとか脳内理想と違うからといって急にこき下ろしてみたり、忙しいことだ。勝手をされるほうとしてはいい迷惑である。もうちっと落ち着いて現実を見たらどうなんだ、とか毒づきたくなってくる。
その反面で、サタンが妙に英雄的で人間味に溢れているのが面白かったな。いってみれば「友情」「努力」「勝利」の3原則が詰まったワイルド系だな、などとバチアタリなことを思ったのだった。アダムよりサタンのほうが罪に自覚的だし、そりゃいい男だわ。