読了:幼年時代(レフ・トルストイ)

幼年時代 (岩波文庫)

幼年時代 (岩波文庫)

「ママの死と同時に,私にとって,しあわせな幼年時代が終り,新しい時代――少年時代がはじまった」.思いがけずかいま見た大人の世界,ふと意識する異性,見慣れたはずの光景がある日突然新たな意味をもって迫ってくる…….誰にも覚えのあるあの少年の日のみずみずしい体験を鮮やかに写しだしたトルストイの自伝小説.

あちこちに堂々と『自伝小説』と書いてあるが、これはあくまで『小説』であって『自伝』ではないらしい。幼年というと『乳幼児』という言葉を連想してしまったが、主人公のニコーレニカは十歳になったばかりの少年である。その心の動きを、繊細にそして瑞々しく描いた小品で、トルストイのデビュー作でもある。
ニコーレニカは裕福な家庭に生まれ育ち、貴族の倣いで子ども時代を田舎の領地で過ごしたあと、二歳上の兄と共にちゃんとした教育を受けるためにモスクワへ出ることになる。半分は狩りや姉妹や家庭教師や乳母など、領地で彼を取り巻く子ども時代の物事が描かれ、半分はモスクワでのダンスパーティや女の子、都会的な祖母などこれから入っていこうとする大人への入口となる出来事が描かれる。そのうちに領地に残った母が病で亡くなってしまった、というのが筋である。
トルストイ自身の母は彼が二歳足らずの頃に、父は九歳のときに亡くなっているのだそうな。小説に描かれた天使のような穢れなき母親像は、トルストイの想像の産物である。子どもをノスタルジックに純粋な存在として描くのは、十九世紀のロシアで流行った形式だったようだが、この小説のニコーレニカも裕福な家に生まれ育つ非常に幸せな少年である。大人になってから回顧している形をとっているせいか、セピア色をしているようなきれいな思い出の数々で埋め尽くされている。
前半は無邪気に転がり回って遊んでいたニコーレニカだが、モスクワに出てからにわかに色気づく。他者の目を気にするようになるのは人格の成長する自然な姿なのだろうが、その陰で母親の葬儀の際には純粋に哀しめなくなっている自分に苛立つ。一度気づいてしまったものは、知らなかったときのようにきれいさっぱり心から消すことはできない。成長するということの苦味を予感させつつ、幼年時代は幕を下ろす。