ああ、ムズムズする。

益がないのであまり首を突っ込まないようにしようと思うのだけど、どうして人を殺してはいけないのかって設問は、自分自身の人生における進捗度を測られるようで、気になって仕方がない。気になって仕方がないということは、私もまだまだ尻が青いということの証明である。


まず、面と向かってされる「何故人を殺してはいけないのか」という質問には、なんら答える必要はないと私は思う。
質問していること自体が、質問者は教育を施す側ではなく、未だ社会のルールについて教えてもらわねばならない側だと、暴露していることになるからだ。それでも一人前に敬意を持って接してもらえると思うほうがおかしい。
といいつつ、少し書いてみる。


学校で習った範囲でいい、歴史を少し考えてみれば判る。殺人は場合によっては、社会的にも許される。許されるどころか、それがヒーローだったこともある。
いまの日本で、殺人を「いけない」と定義しているのは、法律だ。では何故、そうした法律ができたのかというと、「守るあなたが守られる」からである。それ以上でもそれ以下でもない。
では、「私は人に殺されてもいいと思っているが、それならば私は人を殺してもいいのか」について。これの答えは、「自分で決めろ」だ。誰も人の行為を規制することはできない。が、そうした法律が存在することは知っているんだろう。自分の行為の報復は、自分で受けるだけだ。
肉親や近しい人が言う「人を殺めてはいけない」の言葉は、現時点でのルールの存在を教えるためであり、それを破れば法の執行を含め、それに付随した諸々の大きな報復が待っているから、やらないほうが身の為だということを教えているのである。また、社会的な制裁は周りの人間にも及ぶ。ひとりの考えなしのために迷惑するのは厭だから、止めたいという力が働く。つまり「私にとっても迷惑だし、キミが辛い目に遭うのを見たくないから、守るほうを選べ」と言っているにすぎない。もちろん、言葉自体に強制力があるわけではなく、もし強制される窮屈さを感じているなら、言葉を発した相手との関係に原因があるんだろう。


つまらないほど自明の理である。本能論や感情的な部分は、出発点ではあるが、この段では単なる補強だ。気分的に納得したほうが、約束事は守りやすいしストレスも少ない。ひいては自分を守ることになるわけだ。善悪は社会によって変わるし、それに伴う気分的な抑揚も同じく変動する。人間の気持ちがどの地方/どの時代でも一貫していると断じるのは、井の中の蛙と言わずしてなんと言おう。
こうした単純な事柄において、判らないから他人に聞いて教えてもらおうとする行為については、色々な解釈ができる。勿体つけすぎて落としどころが判らなくなった、というのが一番ありそうな気がするが。


「何故いけないのか」と訊いただけで、「ひどい」「非人情」と反駁されるのは、社会のルールを覆す言葉を発したことに対する、因果応報である。受け止めるしかない。それが厭なら言うことを止めればいい。この上「何故社会のルールを覆してはいけないのか」という問いは止めてもらいたい。「自分は考えたくありません」と言っているのと同義だ。結局、殺人と同じである。絶対にしてはいけないと外部から強制されることなど、この世にはない。あると感じているなら、外部の圧力に屈したということだろう。ひとりの人間には耐えられないような圧力は存在する。それとこれとは同じに見えるが、別物だ。


ところで、そうした言葉を発すること自体、相手に挑発だと受け取られても仕方ないということは、忘れてはいけない。
一般論で「私は人に殺されてもいいと思っているが、それならば私は人を殺してもいいのか」ということは、そのまま縮尺を小さくすれば、「私はあなたに殺されても構わないけど、私はあなたを殺してもいいか」という意味でもある。「あなたと殺し合いをしたいと思っている」ととられても、文句は言えない。こんなことを解説している自分が厭になってきたが、言葉を発するというのは、そういうことだ。教える側と教えられる側ならば、単に字面通りの意味だろうが、それを人間関係すべてに当て嵌めることは出来ない。
そういうつもりではないという気持ちと、そういう行為をしたという事実は本来は無関係だ。挑発すれば相手が怒って当たり前だ。それが厭だと思う程度の覚悟なら、人に殺されてもいいなんて、ちゃんちゃらおかしい。


いろいろな意味で、この質問は人を苛立たせる。
何でも他人に訊いて済ますんじゃねぇよ。こんな単純なことが判らないヤツに、説明したからって理解できるのかよ。挑発してんのか、コラァ。である。
好むと好まざるとに関わらず、人は社会の中に生きている。そりゃお坊さんだって殴られる。しかし、ああ、どうしてこんなに熱くなってるんだろう、私。