長い世迷言

私は人との軋轢というものに非常に弱くて、というのも罪悪感や自責の念が強く、あるいは刷り込まれた常識がかなり保守的なものであって、実のところ私は一億総中流社会の恩恵を受けた育ち方をしており、風にも当てないような守られた子ども時代をしかも農村的ガチガチな家風の中で過ごしてきた。
流浪の民のようなある意味無責任で寛容で奔放な、しかし厳しい風に身を晒す生き方というものに憧れもし、時代の流れが守られたままでいることを許さなかったこともあって今があるわけだが、根っこのところはあくまで臆病で保守的であって、物事の表面を撫でるように軽やかに世の中を渡っていくことに根拠のない罪悪感を覚える。
どうやら感情の振り幅も大きいらしく、自分自身の喜怒哀楽に振り回されることもしばしばで、そこのところのセルフケアを怠ると後で歪が出て大変な思いをすることになる。そんなこともあっておいそれと新奇なことに手を出すのはなかなかに躊躇してしまう自分がまた厭で、頭では答えが出ているのに状況を動かすことができない鈍重さにほとほと手を焼いてしまう。
いろいろ好き勝手やっているように見えるかも知れんが、実際はやむにやまれず目の前のことを解決してきただけで、本当は好きでやっているわけじゃなくて、そんなことを知らずにいられたら良かったのかもしれないと思わなくもない。反面、他人から与えられる幸せなぞいらん、と我儘にも切って捨ててしまうからなるべくしてこうなったともいえる。
もっと楽に、臨機応変に、先のことなんて判らないし、判らないことを考えたってしょうがないじゃない。
頭ではそう思うのだけど。
マリウスのように妻子がいながら出奔して他の女を口説いたりするということ、それはそれでと思う一方で苦いものがこみ上げてくる。そういう人もいるのかもしれない。大したことではないのかもしれない。それでいいのかもしれない。
人の一生というもの、死ぬまで何とかなればいいんじゃないかということ、どうせいつかは死ぬ身のひと踊り。踊っている自分と、踊りの輪の外側で身悶えしている自分がいる。