裸に貝殻は痛そうだ

子どものころから気になっていることがある。
人魚って、セックスアピールが物凄くあるようで、全然ないよね。ということ。
だって人魚の下半分は魚様なわけだから。そんなことを考える子どもは厭な気もするが、思っちゃったんだから仕方ない。
種の保存が生物にとって重要課題である以上、あらゆる文化や願望欲望の陰に子をなすための戦略が隠されている、という即物的なオッサンくさい言説をよく見かけるのだけど、まあ、そうだろうなとある程度は納得している。
ただ人間の社会生活とはそんなに単純なものではないし、美しくなりたい女性の欲求も、ひたすらそれを目指すことで純化し、より高度に文化的になっているんじゃないかという仮説。文化的というのはファンタジーであって、病的だということだ。文化があるから痩せようと努力をする。他の動物はそんなことしない。
そもそも人間の交接は子をなすためだけに行われるわけじゃない。それ自体が既に高度なファンタジーになっているのだ。その本末転倒なオカシサを考えたら、女性が美しく可愛くなろうとする動機が、男性の気を引くためなんて下等な欲求を乗り越えたとして、何の不思議があろう。オトコなんて関係ないわ、私は自分のために美しくなりたいのってか。
人魚は女性的な美しさの象徴のような気がするのだ。しかし手にいれることはできない。生きてる世界も違うし、種も違う。人魚の側から歩み寄って魔女に足をもらったりしてくれなければ、ただ愛でるだけ。性愛や恋愛の対象にはなり得ない。どんなに美しくて心を乱されようが、初めっから土俵にあがってないのだ。*1
人魚伝説なんかでそういうファンタジーが古くから受け継がれているということは、美しいものはそれだけで見る価値がある、ヤれなくてもそこに存在するだけで特筆すべきことであるという感覚を、多くの人が持っているということではなかろうか。

*1:ココロばあさんの場合、加齢+常時酔っ払い+侠気ありすぎで、更に性的記号から遠ざかっているわけだが。