映画:アリス・イン・ワンダーランド(監督:ティム・バートン)

映画を観る前は原作通りのロリロリなアリスが出てくるのかと思いきや、そのアリスが成長したらという後日譚となっていた。幼少時に迷い込み遊んだワンダーランド。夢なのかと思っていた‥‥。
IMAX3Dで観た。造形も衣装もバートン一流のデザインである。美しくないわけがない。特にチェシャ猫の動きがかなりステキで、三日月形に笑った口元だけ残して出たり消えたりするのが、これほど無理なく当たり前に見えるのも、なんだかおかしいくらいだった。
不思議の国のアリス』は作者ルイス・キャロルが即興で口からでまかせを三人の少女達に語って聞かせたのが始まりなのは、いまさら言わずもがなである。少女達のうちのひとりだったアリスは当時10歳。その三年後に本が出版されている。そして更に6年後、続編である『鏡の国のアリス』が書かれた。そのころすでに現実のアリスは19歳だったわけである。映画の中のアリスもまた、19歳。
『不思議の国』で出てきたお茶会はすっかり時間がたって待ちくたびれ白けてしまっている一方で、ナイトが出てきたり話の骨子が赤の女王v.s.白の女王だったり、ジャバウォックがキーを握っていたり、もちろんそのままではないものの、どちらかといえば『鏡の国』を舞台にしたものだったのだろう。『不思議の国』ではアリスは荒唐無稽な目に遭い、赤の女王率いるトランプの兵隊に追い詰められあわやというところで目が覚めてお話が終わってしまう。物語そのものは中途半端の尻切れトンボで決着がついていないのだ。しかし幼い少女はそんなことは気にしない。移り気で奔放な想像力のみで駆動している生命体に、ものの道理を弁えろといっても無理である。興味が移ってしまったら、それまで夢中になっていたものもすっかり忘れてしまうのが少女というものだし、そこがアリスの物語の魅力でもあった。
しかしかつてのいとけない少女もいまや19歳である。花も仲間に入れたくなるほど美しく成長し、まだまだ屈託のない夢を見ていたいけれども、現実にも向き合わねばならない場面がやってくる。同時にアリスの内部世界であるワンダーランドも荒唐無稽なりに整合性を持ち始めるのも頷ける。その大きくなったアリスがあの『不思議の国』の続きから物語の決着をつけるとしたら、というお話なのだろう。
ワンダーランドの中でアリスは何度も何度も「あのアリス?」と身元を質される。私は誰? 私とは誰? 誰が私? その哲学的な問いは、無自覚な少女を相対的な一個の人格として鍛え上げることになる。頭の大きな赤の女王は、その身体のバランスからも家庭の暴君たる幼児性そのものだし、対する白の女王はわざとらしいほどなよやかな芝居がかった所作が女性らしさを演出するしたたかな処世を戯画化しているようで笑える。どちらが正しいかではないのだ。裏を返せばどっちもどっちである。それが判っていながらなお、選ばねばならない場面に直面するのが、大人になるということなのかもしれない。
私は私。私が私であるために。夢を見ているだけの時代は終わり、夢を叶えるために動き出す季節の到来を祝おうではないか。