読了:『百年の孤独』(ガルシア・マルケス)

百年の孤独

百年の孤独

言わずと知れた世界的名作である。読んだ動機はぶっちゃけ、名作といわれているから、である。基礎教養はなにかとおさえておくに限るし、趣味がミーハーかつ王道なので世の中で評価の定まったものは私にとってはたいだい外れない安心感もある。そんな打算から、しかしそれでも『白鯨』のように難解だったり退屈だったりしやしないかと多少は構えて読み始めたのだった。ところがどっこいあにはからんや、これが終わるのが惜しくなるほどすんごい面白かった。毎晩布団の中で5〜6ページずつちびちび読むのは実に愉悦に満ちた時間であった。こういう「読んでいるだけで面白い小説」というのは確実に存在するのよな。
マコンドという町が出来てから百年を経て崩壊するまでの物語で、町の創世の中心的役割を果たしたブエンディア家の興亡記でもある。ひとの一生を越えた時間のスケールでもって繰り広げられる濃いエピソードの綴れ織がどこか神話を思わせる。ウルスラは太母であろうし、ピラル・テルネラは対となる車輪のようだ。豊饒たる母なる大地。ここにはすべてが詰まっている。生命をかけた恋があり商売があり冒険があり、革命があり技術の進歩があり狂気があり死がある。濃縮しておいて一滴も還元しないジュースのようだ。しかしブエンディア家の人々は結婚しても子供が生まれてもどれだけ人数が増えようと(なにせひとりの男に息子が17人生まれる)、ひとりひとりが世間に馴染まない孤独を抱えている。そして孤独であるがゆえに銘々が周りを意に介さず、気持ちいいほど独立独歩の動きをみせる。蛍光管の中で縦横無尽に飛び回りぶつかり合い光を発する電荷のようだ。
一家の最後のひとりとなるアウレリャノについて、「初めて愛によって生まれた赤ん坊」という記述でようやく気づいたのだが、登場人物たちはみないわくつきの翳を背負って生まれてくるのだな。それぞれの翳に惹きつけられ、知らぬうちに隣人の親近感のようなものを持つようになり、どんな人生を歩むのか目が離せなくなる。しかしマルケスは登場人物の口から嬉しい辛い苦しいなどの直接的な言葉をほとんど言わせない。込み入った心理描写をせず、客観的でときに魔術的な叙事をひたすら積み上げる。
くるくると手を変え品を変え繰り出される荒唐無稽なお話が、風呂敷を広げて一瞬のうちに畳んで見せる間もなくまた別の風呂敷が広げられまた畳まれる。目移りしているうちにあちらで引っ込みこちらで打ち上がる豪華な花火のようだ。


ここ何冊か続けて南米の小説を読んでいるが、「マジック・リアリズム」とはなんぞやと不可解に思ってきた。
魔術的日常ってなんだろうな。いままで読んだラテン文学には、確かに呪術的な話運びはあるのだけど、そこで「そんなわけない」と白けるかというとむしろ逆で、つい引き込まれてしまう。呪術的といえど作為的なご都合主義ではなく、表出するのは不条理そのものである。「嘘」ではなくてちょっとした迷信や宗教のように、日常で人の心を律する縦糸となっているようななにか。そうすると物理法則ではない別の法則に則って動いているだけ、むしろ現実よりも真実らしい気がしてくるから不思議なものである。
そうか、これがマジック・リアリズムというものか。