お出まし

急に憑き物が落ちたようにいろんな欲求が戻ってきた。観たい展覧会や映画が目に飛び込んでくる。体調がイマイチだと外に目が向かなくなるが、調子が戻ってくると如実にあれもこれもしたくなる。躁鬱のケがあるともいえる。
そんなわけで唐突に思いついたが吉日善は急げで、仕事帰りに『インセプション』のレイトショーへ行ってきた。久しぶりだなぁ、レイトショー。1年半ぶりくらいだろうか。観る前の腹ごしらえに必ず外食、帰りは終電逃したら自動的にタクシー帰宅というリスクがあるので、観覧料が安くとも必ずしもお得とはいえないのだが、平日に豊かな時間を過ごせる生命の洗濯とすればプライスレスである。
そんなわけで昨夜は馥郁と香る文化の芳しさにしばし陶酔しうっとりと眠りに就いたわけである。
不穏な音で目が覚めた。普段は寝起きが悪く30分はぐずぐずしているのが常なのに、一気にアドレナリンが身体中を駆け巡る。
ぶぶぶぶぶ
低いホバリングの羽音。
 こ れ は 間 違 い な い ス ズ メ バ チ だ
目を開くと天井近くを飛んでいる物体が見えた。自慢じゃないが私は乱視が強く視力は左右とも0.03以下である。ギンバエくらいじゃ飛んでいるのは見えない。見えるということは、それなりの大きさを具えているということに等しい。何を言っているのか判らなくなってきたが、とにかく刺激しないようにそっと飛び起きて眼鏡を装着。
 い た !
思慮深そうに悠然とホバリングするお姿には気品すら漂う。王者の風格をそなえたそのご威光に打たれ平身低頭して様子を窺うと、自然界でここまで近寄ったら逆鱗に触れるに違いない距離だのに、スズメバチ様はこちらには目もくれず明るいほうへ近づいていかれる。お外へお出掛けになりたがっていらっしゃるとお見受けしたので、窓を全開にしそこだけカーテンを開けて差し上げると、おもむろに何食わぬ顔でしかし速やかに落ち着いて御出でになられたのであった。
ああ、心臓に悪い。クマバチは毎年近所で見かけるが、スズメバチは初めてだ。ベイブリッジが見える場所に住んでいるはずなのに、なんでここらはこんなに自然がいっぱいなんだ。田舎にいた頃よりよほどいろんな生き物に遭遇する。しかし羽音だけでヤバさが判るのはなんでなんだろうな。と不思議がりつつ、遅刻しそうだったのでこちらも速やかに支度して出たのだが、いつもの通勤電車を何故か反対方向へ乗ってしまったのだった。思わぬ大物の出現に相当動揺したらしい。そしてふと気がついたのだが、エアコンを消してくるのを忘れた。大丈夫か、おれ‥‥なんか妙に混乱してるけど、もしかしてこれは夢なのか‥‥。