映画:インセプション(監督:クリストファー・ノーラン)

いろいろ故事をなぞっているのだなということは断片的に判ったのだけど、この古い命題をいまの時代に蘇らせてみるとなんとしっくりくることだろう。
夢とは脳で認識する信号である。信号自体には現実と夢との差異はない。体験していること、見えていること、感じることとはすべて脳の化学反応なのだ。幻聴も幻覚も幽体離脱も、体験している本人にとっては現実なんである。
サイバーパンクの流れでマトリックスをはじめサロゲートアバターなどバーチャルと現実を比較する作品は数々作られてきた。例えば電脳化したら人格はどうなるのか。はて、人格とは何ぞや。人格は記憶の集積であり、どこから来てどこへ行くのかという連続性のなかにある。過去を一切持たなければ、心はまっさらなままたったいま起動されたロボットと変わらなくなってしまう。現実と人格と連続性。
では、逆に肉体を持った現実の垣根が崩れたら、夢と区別がつくだろうか。
夢がテーマの有名な話というと、胡蝶の夢だろう。どちらが夢でどちらが現実なのかという主題ならあくまでも主体は自分だが、いま生きているこの人生は誰かの夢かもしれない、その誰かが目覚めたら自分は泡が弾けるように消えてしまうのかもしれないとしたらどうだろう。

「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」
 呂翁は顔をしかめたまま、然りとも否とも答えなかった。
芥川龍之介『黄粱夢』