迷想・本の対価

無料もしくは格安で読める活字を利用しようとするたびに、心に引っ掛かる主張がある。気にしないで利用すればいいんだと思っても、何が引っ掛かっているのかはっきりせず、主張も何も持たずにふわふわしている私は、何か気付いていないことがあるんじゃないかとやっぱりどこかで気が引けているのだ。
本は身を削ってもお金を出して買うべきという思想は、身銭を切るという儀式を経ねば知識を得るにも身につかず、読書するだけ時間の無駄だ、という意味のことを言いたいのだろうか。そこまでして求める気構えがなければ、読書に値しないとか。
何度も読み返すことで、理解や思索を深める効果はあるだろう。一度読めば一字一句間違いなくすべての意味を汲み取れる人もいるのかもしれないが、悲しいかな私は凡百の徒なので年齢とともに読み方が変わったり、二度目三度目で新たな発見をするということは少なくない。
そんな読書体験を享受するには、確かに手元に一冊置いておくのが、今の時点で考えられる限りの一番自然な選択であろうとは思う。しかし対象が膨大な量に及ぶとき、それが実現可能なのか、別の問題が出てこないかというのは一考に値しないと切って捨てられるのだろうか。
そういやちょっと微細な話になるが、図書館や古本屋は利用するけれども、友人・知人から借りて読むということは殆どしなくなった。貸してくれる友人がいないというのが、理由の筆頭のような気もするが。一つ屋根の下に住んでいる誰かが買った本なら、融通しあうことはよくある。こんなふうに本は一家の共有財産というような感覚はけっこうあるように思う。