連想ゲーム

ある本を読んでいて、別の本の内容を連想することがよくある。
ある場面、ある件が、まったく別のある場面、ある件と結びつく。たまに音楽でもある。鼻歌を歌っていて、いつの間にか似たような節回しのある別の歌に摩り替わってしまうとか。
それは本も歌も全体が他の全体に結びつくわけではなく、繋がる部分と部分以外はやはり別物である。とするとこの連携に注目すれば、重要なのは全体ではなく抜き出した部分なのではないか。ヒトの思考って、そういう部分部分の寄せ集めで動いているんじゃないか。
もう一歩進めると、じゃあ他と結びつく(この場合において)重要な部分だけを拾い読みすればいいということにはならないか。
‥‥いや、やっぱりそれは違う。
繋がる部分が意味を持つのは、繋がらない部分も含めた全体が支えているからこそだ。流れがあり、根拠があり、因果があって初めて物事というのは起きる。事象だけが単体でポツンとあるわけではないのだ。小説の中である一場面が大好きだとしても、それを演出する登場人物に形を与えているのは他のエピソードの積み重ねであり、感動的な一場面が意味を持つのはそれまでの越し方があるからだ。それを踏まえた上でなければ、部分の意味も霧散してしまう。
だから本は本でやはり一冊まるごと必要なものであり、しかしそれなら部分と部分が結びつくことを表すにはどうしたらいいか。
タグをつける、という方法はあるのかもしれない。本の中身を一冊web上に解体して、部分ごとにネットワークの紐をつけて結び合わせる。一目で相関関係を把握できるようにするとか。
えーと、それはヒトの脳内の思考なのではなかろうか。いわゆる並列思考というものなのでは。シナプスが繋がっている部分を、ネットで代替/共有しようということになるのだろうか。
私もよく本の感想でアレとコレとソレを連想したというような書き方をする。他人が見てもよく判らないかもしれないし、共感してもらえるかもしれない。しかしそれはそれとして、自分のための健忘という意味合いが強い。何故なら、それは私の脳内の引き写しだからだ。私自身が見れば意味が判る。しかし知識の範囲や既読本の冊数・内容、記憶の曖昧さ、イメージの相違など他人と共有するには不確定な要素が多すぎて、全体としては本人以外にはあまり用をなさないのではないかと思う。
しかしだからこそ一部でも共鳴できれば、またとない個人同士の連携ということになるのだろうか。一冊の本と同じで、人もひとりはひとりでありながら、部分ごとに結びつくのか。